■本質を究める 43  (No.447)

決断力の無い様が日本中を混乱させている

  オリンピックの実質の責任者は?

2020年の東京オリンピックに関して,新国立競技場,エンブレムなど問題が続出している。特に,新国立競技場については,大規模な工事を伴い,予算オーバーで白紙撤回になってしまった。実際の詳細な経緯はよく判らないが,国民目線では,どうも誰が責任者で取り仕切っているのか,よく判らないように映っている。最高責任者は安倍総理だろうが,実質の責任者が誰なのか?

そもそも新国立競技場は,2020年の東京オリンピックの目玉にもなっており,誘致できた時点で,デザインなど構想ができあがっていた。当初の予算は1300億円で,それに見合った設計になっているはずであった。しかし,8万人を収容する建物で,他の競技にも当然使われる。特に,オリンピックの1年前の2019年に日本でラグビーのワールドカップの開催が決まっており,その会場にこの新国立競技場を使いたいと日本ラグビー協会の会長だった森元首相の意向が強くあり,それに逆らう人が居なかった。

特に,森元首相の発言では,日本の素晴らしさを示すために,費用は幾ら掛かってもよいとの認識があったようで,予算が2倍以上の3000億円にも膨れあがる事態に陥った。これには,デザイン者と実際に設計する者とが違うとか,競争入札でなく,一社に見積もらせたとか,いろいろな不備は指摘されてはいるが,新国立競技場の新設に対して,誰が責任を以て決めていたかが極めて曖昧で,責任者不在のまま,時間だけが過ぎてしまっていた。

全体を取り仕切る位置にいた文部科学省は,こうした大規模な公共事業に対する経験及び知識も欠けていたし,日本スポーツ振興センター(JSC)は文部科学省が所管する独立法人だったが,文部科学省が監督能力も欠如していた。また,オリンピック委員会(JOC)と東京オリンピック競技大会組織委員会なるものが併設され,ここにも重鎮が多く並び,後からであるがオリンピック担当相までできた。日本特有の横並びの組織体制ができあがってしまったのである。

日本に誘致が決まった時点で,浮かれるのではなく,オリンピックの実質責任者,オリンピック担当大臣でもよいが,素早く決め,その下で各組織委員会に指揮命令ができるようになっていれば,もう少し早く決断ができたのではないかと悔やまれる。文部科学大臣がもう少し権力を発揮できておれば,と云う見方もあるが,結果論であって周りの重鎮が居る中で,権限を与えられていたかとは言い難い。

  船頭多くして船山に登る

組織の構図が複雑で,多くの関係者が並んでいる。しかも,各々が各界を代表する大物実力者で,何か物言わんとする人ばかりである。当に,この構図では,船頭多くして船山に登る,と云う表現がピッタリ当てはまる。

各々が取り仕切る責任をもった発言をするのならばともかく,こうすればよいと云う第三者的な発言だけをしていたかのように映る。特に,問題が大きくなって責任の所在が云々されるようになると,発言をした,又は自分の意向を押しつけたような人は,責任は自分には無いと無責任さが目立ち,腹立たしく感じたのは私一人では無いはずである。

要するに,自分は船頭になってはいないとの意識だが,冷静にみれば明らかに船頭の一人であり,混乱の責任の一因には違いない。最高責任者が明確でないが,それに近い文部科学大臣が船頭の一人として船を操ろうとしたとしても,周りにいる重鎮の船頭を押しとどめるだけの力は無かったと見受けられる。つまり,周りにいた船頭が各々進むべき方向を勝って勝手に示し,収拾が付かなかったと推測される。否,文部科学大臣自身が進んで船を操ろうとしていなかったのかも知れない。

また,日本の諺に,長いものには巻かれろ,と云うのがある。自分の手に負えないほど長いものには,逆らってもムダだからおとなしく従った方がよい,と云うものであるが,森元首相に面と向かって自分の意見を押し通そうとする人は居なく,森元首相の意向が通ったのではないかと理解する人は多いのではないだろうか?それは森元首相が悪いのではなく,最終決断できる実務責任者が欠落していた組織体制そのものの方に問題があったと云えよう。

  和を以て尊しとなす

以前,個人の能力よりも組織力が優る(No.338)と述べたが,今回の件は組織力になっていない典型的な例である。日本は聖徳太子以来,和を以て尊し,とする精神が受け継がれてきている。これは,何事をやるにも,皆んなが仲良くやり,諍いを起こさないのが良いこととされる精神で,このことわざに相当する英語のフレーズは無い。もちろん,英訳はできているが,日本特有の表現で日本人だからこそ,通じるものである。

この和を重んじる精神は素晴らしいものであるが,今回の件のように,和を重んじていただけでは無いにしても,総論で進めようとするやり方は,責任者不在の無責任なやり方になってしまうリスクをはらんでいる。即ち,総和にはならない場合,最高責任者が決断を下す必要があるときが起こる。ところが,今回の例は,当に誰もが責任を感ぜず,問題をズルズル先延ばしにしてしまったことに起因している。先延ばしにするつもりでは無かったとしても,無責任な結果には大きなロスが発生し,その責任は甚大である。

和を重んじる精神と,勇気ある決断とは相矛盾するものではない。日本人はともすれば,和を重んじるがゆえに,責任を曖昧にして,それに拘わった全員が全体責任を負うような風潮がある。会社組織でも横並びの組織は珍しくない。しかし,いざと云うときには,誰かが責任者となって決断しなければならない。この責任者の決断力が勝敗を分けることなる。この決断力が弱い一面が日本人の特質になってはいないか?

  

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[Reported by H.Nishimura 2015.10.19]


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