■本質を究める 72 権力者の倫理観 (No.583)
昨今のいろいろな話題の中で気になる点がある。倫理観の欠如である。特に,権力者になると当然のように力を振り回すが,その行動が倫理観からは逸脱している。権力者になったからなのか,倫理観がもともと無かったから権力者にのし上がったのかはよくわからない。ただ,余りにも酷いのが気になって仕方ない。
安倍総理の言動
忖度と云う言葉がまかり通っているが,そもそも上にへつらうことで,上の言いなりになってしまっている状況である。これは上に立つ人の権力が大きければ大きいほど,忖度の度合いが増すようである。前述したが,そもそも忖度は悪いことではなく,上の気持を推し量って行動を起こす前向きな姿勢である。しかし,これが行き過ぎとも,過剰に反応されているから問題なのである。
しかし,これは上に立つ人の考え方,倫理観で大きく変わる。もし,安倍総理に正しい倫理観が備わっていたならば,これまでのような忖度と云われる言動は行われなかった筈である。ところが権力者となり,自分の思い通りにしたい欲が沸いてくると,その倫理観が歪められてしまうようである。いや,安倍総理の場合は,もともと倫理観が欠落していたのではないだろうか?子供の頃からかどうかは判らないが,昨今の一連の言動からは倫理観は全く感じられない。政治家故か,総理になっているからか,人としての正しい言動とは思えないフシが見受けられる。これも前述したが,ノブレス・オブリージュとか,李下に冠を正さずと云ったことが全く理解されていない。
こうしたことは,育ちのせいかも知れない。要は権力を持った人が倫理観が欠落しているようでは,全体が幸せになれるはずがない。否,権力を持ち,上に立ったからこそ,倫理観が重要で,人に信頼される大きな要因である。ところが,昨今の総理の言動は全く反対である。徹底的にウミを出すと言いながら,国民を舐めているのか,全くその素振りも見られず,何食わぬ顔をしている。厚顔無恥である。
日大のアメリカンフットボールから
マスコミでも随分話題になったので,ここで改めて述べる程でもないが,監督,指導者として倫理観のかけらも感じられない。権力者としてあるまじき姿であり,よくもこんな人が指導者として務められていたのだと呆れ返る。監督の権力が余りにも絶大で,誰も監督に意見を云う人がおらず,コーチ以下チーム全員がおかしいと感じつつも従わざるを得なかったようである。
権力者が倫理観を持たず自分の意のままになるように部下を操ると,とんでもないことが起こる。第三者が冷静に見れば,異常なことは明らかである。しかし,その場に居ると,そうした冷静な眼も活かされなくなってしまうようである。日大の例が話題になっているが,未だに旧式のやり方が横行しているスポーツクラブもあるのではなかろうか?
歴史は繰り返される
権力を持った人の倫理観について考えてきたが,そもそも歴史を振り返っても,織田信長や豊臣秀吉に遡ってみても,天下統一という偉業を成し遂げた権力者においても,虐殺や人殺しなど天下を統一する目的のためには,何でもありだった。もちろん,年代が違うので,現在の倫理観をそのまま当て嵌めるのはムリなところもあるが,権力者には倫理観は要らないようにも映る。
つまり,天下統一という偉業を成し遂げるには,変な倫理観があってはできないことなのかも知れない。偉大な目的を達成するには倫理観は邪魔なものだったのかもしれない。倫理観という一見人に優しい,皆んなから慕われるような気持の持ち主では,偉業は達成できないようにも感じられる。果たしてそうなのだろうか?今の倫理観の尺度でみるからそう感じるのかも知れない。
権力者の力が大きければ大きいほど,独裁がまかり通るようになる。そうなると,なかなか廻りからの忠告にも耳を貸さなくなってしまう。自分が良いと思うことに全力を注ぐ。自分の判断が総てで,善し悪しの倫理観は二の次になってしまう。権力者故ではなく,人間の性でもある。これが繰り返されているのが人間社会でもある。
安倍総理に少しでも倫理観が備わっていれば・・・
[Reported by H.Nishimura 2018.06.11]
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