■本質を究める 70 一強の弊害 (No.576)

昨今の官僚の不祥事の要因はどこにあるのか?と考えると,前回の忖度にも述べたが,官僚が本来なすべき事を疎かにし,国民目線では無く,官邸の顔色を伺って仕事をするようになってしまっているのではないか,と云う気がしてならない。

  官僚のあるまじき行為にあきれる

公文書の書き換えに唖然としたところに,今度はセクハラと,官僚の中でも一番優秀とされる高級官僚のトップに君臨している次官級が相次いで辞任に追い込まれている。財務省と云えば昔の大蔵省でその官僚でトップともなれば,公務員ならば目指すところの最高到達点とも云える役職である。それらの人が,相次いで失態を重ねている。

若きときから優秀で,常に先頭を走ってきた人達だろうと想像する。東大から官僚になったときの初心は,想像するに自分の手で国家を動かすような大きな仕事を成し遂げたいと意気揚々だったのだろう。そうした若き熱い思いとは裏腹な今日の体たらくは,何がこのように変えてしまったのだろうと疑問を抱く。

当事者の現在の意識はどうなのか知る由も無いが,少なくとも悔いが残ることになっているのではなかろうか?

  なぜ,このような事態が起こったのか?

官僚の本分は,政治家がやろうとすることに忠実に実行することにあり,その背景に国家全体を考えて,あるべき姿を実現させようとする仕事でもあり,それ故に誇りも高く,国民からの信頼も得て公僕に尽くすことであろう。だから,一昔,大臣が次から次へと変わった時代には,官僚が力を発揮し,大臣よりも力を持って仕事をしていたときがあった。

しかし,一方で官僚が力を持ちすぎて,政治家が官僚の言いなりとまでは行かなくとも,官僚主導の政治が行われていたことがある。これでは,国民の意見を反映した政治が損なわれ,その反省から政治家の目線の官邸主導政治に変わって行くようになってきている。このことは,国民から選ばれた政治家が主体となった政治が行われ,本来あるべき姿になったようにも感じられていた。

ところが,官僚の人事権まで官邸が持つようになって,変化が生じてきた。官僚が政治家の思いを反映し具体的な実務主体となること自体は良いのだが,人事権を持った官邸の顔色を伺うように変わってしまったようである。要は自分の出世のカギを,上司では無く官邸が持ってしまったためである。それが,忖度という形で行動するようになったのである。

そこまではそれほど悪い結果を生む要因には成り得ないのだが,安部一強独裁と云う,強力な官邸主導が行われるようになったのである。そこでも安倍総理の才能が優れておれば,一強でもそれほど弊害は出なかっただろうが,一連の騒動を見る限り,公私の分別や政治家としての度量など,本来の宰相としてあるべき姿とは程遠い人格の持ち主だったことである。

何度か述べたが,元々頭の切れは良くなく,坊ちゃん育ちのところがあって,廻りにも苦言を呈する人を寄せ付けず,裸の王様のような部分が見受けられ,廻りの忖度に胡座をかいているような素振りが見られる。前にも述べたが,欧米のノブレス・オブリージュや中国の諺,李下冠を正さずと云ったことが全く理解できていない人のようである。

こういう人がトップに君臨している限り,高級官僚の不祥事は起こるべくして起こった出来事の事例だと言っても良いのではなかろうか?トップがころころ変わることも国としてマイナスだが,一強独裁の弊害も,同様に国としてマイナスだと思えて仕方がない。

官僚の不祥事に呆れる

 

以前へ 本質を究める 69  次へ 本質を究める 71  

 

[Reported by H.Nishimura 2018.04.23]


Copyright (C)2018  Hitoshi Nishimura