■本質を究める 64 しきたりの変化 (No.545)
しきたりの変化が激しい。
私たちの若い頃は,何かとしきたりがあって,葬儀などは近所ですべて行い,向こう三軒両隣は手伝いが2人,同じ組のものは各家から1人と手伝い,料理は女中頭が取り仕切り,運営は葬儀委員長として組の代表者,或いは長老が取り仕切って行われ,村八分と云って,葬式と火事の消火(これは放置すると他の人に迷惑が掛かる(二分),これ以外を一切交流しないと云うようなことが行われていた。
しかし,昨今は都会はもちろん田舎でも近所づきあいが薄くなってきている。私の田舎の実家でも,葬儀を家で行い,近所が助け合うようなやり方をしているところは無くなってしまった。母が亡くなって10年近くになるが,母一人になっていたため,葬儀は近所の協力を得ても,同じようにお代えし(手伝いに行くこと)ができず,葬儀屋で一切を任せ,ご近所からの香典を受けず,親戚は今後の付き合いもあり,拒絶はしなかったが,お金は要ったが簡潔に済ますことができた。
それから遡ること約10年,親父の葬儀は,会社関係者などからの香典など,幅広いもので,後始末(香典返し)などたいへんな思いをした記憶がある。確かに,昔は,20年ほど前は,近親者に葬儀があると,会社からも香典が出るしきたりで,全く縁もゆかりも無い人でも,会社に勤めているだけで,関係者が香典をするしきたりで,随分ムダなことをしたものだった。ムダと云ってしまうと,それまでだが,親子関係などを重視し,会社からも手厚い援助がなされていた時代だった。
そんな昔から,だんだん会社関係など,縁もゆかりも無い人からの香典は廃止され,今では家族葬とごく近親者のみで行うことが当たり前になってきている。母の葬儀がその過渡期で,近所からの香典は受けなかったものの参列はされ,近所の方みんなで見送ったものだった。今ではそれも無くなってきている。ムダを省き,簡素化は良いが,葬儀などには香典の有無は関係なく,親しい人が見送ることは風習として残しておきたいものである。
人の人情を無くしたような合理化は,必要な場合もあるが,人の一生はみんなで支えられて生きてきているものなので,行き過ぎた簡素化はどこかで見直しが行われることになろう。要するに,人の一生を廻りに支えられ,楽しく過ごしたと云う記憶に残るようにすべきで,風習もそうした観点からの見直しならば大いに賛成だが,人情を台無しにするようなことにはしたくないものである。
しきたりの簡素化に苦言
[Reported by H.Nishimura 2017.09.11]
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