■本質を究める 59 安心・安全 (No.521)
安心・安全が問われている。世の中で求められているのは,安全で安心できる社会であり,その理想に向けた努力が行われているが,現実問題としてはまだまだいろいろな問題があるようである。
安心と安全の違い
「安心で安全な」と云うように併せて使われることが多いが,その意味合いは全く違う。安心は人間が感じるもので,主観的であり,評価することが非常に困難なものであるのに対し,安全は客観的であり,データなどで評価できるものである。
だから,「安心で安全な」と併せて使うことは間違いでは無いが,各々が違った意味合いを持っていることを十分理解しておくことは大切なことである。一般的に安全が高まれば,安心に繋がるのだが,心の問題は微妙なものがあり,安全が高まり過ぎると,意外と人の心は不安をもたげてきて,安心では無くなることが起こるのである。
典型的な例が,昨今の豊洲市場の安全性であり,市場の安全性を確保する方法はより安全な策としていろいろな方法がある。しかし,一方で風評被害のような安心の問題は,安全策を講じても解決できないものであり,それを混乱させてしまうと,いつまで経っても解決できない落とし穴に嵌ってしまう。
決して安心なことを軽んじる訳ではないが,人の心というものは流されやすく,変わりやすいものであり,風評などに惑わされることなく,きっちりとした安全策を採る施策で決断すべきものではなかろうか。先送りが続くようだと税金の無駄遣いに対して,一気に風向きが変わるリスクもあるように感じられてならない。
安全とは
安全は客観的評価はできるものの,すべてが100%安全だと云えるとは限らない。ものによっては絶対的な安全と云うものを実現することは難しく,より安全なものの実現を目指しているものもある。それらは,万が一のリスクは残るが,それ以上のメリットが大きく,万が一のリスクに対して万全の対策を取っている。
しかし,ものごとは単純ではない。原子炉発電の例のように,万が一のリスクが現実に発生しており,リスク発生の被害が大きいので,安全とは云えないと見なされている。一方,自動車の場合,自動車事故はつきもので,頻繁に発生しているが,利便性の方が優っていて,安全な乗り物として世の中を席捲している。つまり,リスクの発生頻度と被害の大きさ,それに対する利便性がどのくらいかによって,安全性が変わってくる。
安心とは
安心に対する対義語が不安である。この不安と云うものは,全く同じ現象や事実でも,受け止め方が人に依って変わり,極端な例は,一方の人は安心だと感じ,他方の人は不安だと感じる場合があるくらいである。だから,100%安心と思う人は居るが,100%の人が安心だと感じるものは殆ど無いと云っても良い。しかも,その人の心は移ろいやすく,流されやすいものである。安心を担保としたい思いは人の心に中にあっても,それを実現することは非常に難しいものなのである。
安心と不安,それに関係するのが信頼である。不安は信頼できないから起こることが多く,信頼ができれば不安は解消される方に向くものである。つまり,安全だと客観的に証明できても,それに疑問を感じ,信頼がおけないと感じたら安心はできないと思うものである。このように,安心するには,信頼できることが一つの要件になることがある。ここでも信頼を客観的に評価できるものではなく,実績や客観的事実の積み重ねで,人が評価することであって,あくまでも主観的なものである。
人々が安心できる社会を目指すのが政治であり,それは信念を持って貫き通すことが大切である。それを大衆の評価を気にして安心という名目で,より安全なことを先送りするだけでは真の政治家とは云えない。先を見通して,決断して大衆を導いて安心させることが求められており,それができていない。どうも真の政治家が居ない日本社会ができているような気がする。
安心と安全は重要なことだが,意味合いは全く異なる
[Reported by H.Nishimura 2017.03.27]
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