■本質を究める 37  (No.421)

我々は物事を考えるとき,何らかの前提条件の下で考え判断しようとする。その前提条件とは,どんなことなのかについて考えてみる。

  数学に於ける前提条件

先ずは最も論理的な数学について考える。数学では,一例として,A>B 且つB>Cであれば,A>Cであると証明できる。あるいは,平面上に絶対に交わらない2本の直線をひくことができる,など学生時代を思い起こすと,数学の公理と呼ばれるものがあった。公理とは,他の結果を導き出すための議論の前提となる最も基本的な仮定のことである。ただし,これもユークリッド幾何学では成立しても,非ユークリッド幾何学では成り立たないと云われている。

公理は議論を始める出発点となる主張(仮定)であって,これを証明することはできないが,明らかに真であると思われるものを採用している。この公理を基に,演繹的に導かれたものを定理と呼び,数学で用いたことがあるいろいろな定理を思い浮かべることができる。この定理を用いて,幾何学的な証明をしたりしたものである。これら公理・定理は絶対的なもので間違いが無いものである。覆そうとしても不可能である。我々一般人にはこれで十分だが,数学者が厳密に議論すると,公理も絶対的なものではないらしい。ここではこれ以上は深掘りしないことにする。

実際,学校などで,数学の授業では公理から議論するようなものはなく,一般的に成り立つ定理について学び,その定理が成り立つことを証明することも学ぶ。この定理を証明するために,他の定理を使うが,その元の定理を究極的に追い続けると公理に到達することはある。

  自然科学に於ける前提条件

こうした数学的な前提条件に比較すると,自然科学の前提は経験則で成り立っており,帰納的な証明で出来上がっている。したがって,時代が進み新たなことが発見されると,それまでの前提が崩れることが起こる。数学と違って,絶対的に正しいと云うことはない。

我々は理科などで,いろいろな法則・原理を学ぶ。代表的なものに,最も古い原理であるアルキメデスの原理があり,液体中の物体は,その物体が押しのけた体積と同じだけの液体の重さに相当する浮力が働くと云うものである。アルキメデスは王冠が純金かどうかを調べる方法からこの原理を発見したとされているが,このように繰り返し同じことが再現できる法則を自然界の原理と定めている。こうした原理は,いろいろな形で応用されており,アルキメデスの原理では,鉄の船でも内の体積を大きくとることで,押しのけた水の重さ=浮力>船の重さに設計して船を浮かべたりすることができている。

17,8世紀頃にはいろいろな法則や原理が発見されてきている。今では地動説が正しいとされるが,ガリレオの時代以前には天動説が正しいとされていた。地球の周りを太陽などの惑星が廻っているとされていたが,ガリレオが望遠鏡の観測で天動説を疑い,ケプラーが惑星の楕円運動を発見する,更にはニュートンの万有引力の発見などから,地球が中心ではなく,太陽が中心でその周りを地球を始めとする惑星が廻っていると地動説に変わっていった。

このように時代が変わり新しいことが発見されると,以前の正しいとされたものが覆させられることが起こるのが自然界で,かっての前提条件が成り立たなくなることになる。

  ゲーム・スポーツに於ける前提条件

ゲームやスポーツは人間が生み出したもので,決められたルールの下で実施される。ルール自体は正しいとか正しくないとかではなく,決まり事で,ルールという制限を掛けられた条件下で行われる。誰もが,参加できるようにするためには,ルールが簡潔なものであることが必要である。なぜなら,複雑なものであると,理解の仕方で判定が変わったり,十分理解できないままで試合は,観客を魅了することもできなく,人気も無くなり,衰えて行くことになる。

もちろん,ルールは人が決めたものであり,不都合なことが起こったり,観客をもっと楽しませるためだったり,時代の背景などで,ルール改正が行われることがある。したがって,ゲームやスポーツをやろうとする人は,最低限ルールを知っておくことが必要で,ルールを知らずに参加することは無謀である。また,ある一定のルールがあるからこそ,ゲームやスポーツを楽しむことができるのであり,ルールの範囲内で競い合うからこそ,腕を磨いたり,練習に励んだりするのである。

ルールは万国共通であることが殆どで,言葉が通じなくとも,ルールさえ知っておれば,共通の土俵で競い合うことが可能である。

  社会生活に於ける前提条件

上記のものの前提条件は,公理や定理,法則,ルールなど,これまでの経験則や決め事など,比較的簡単明瞭で分かり易いものが多い(もちろん,難解な法則もあるが・・・)。また,よく使うものは,それほど多くなく,学校の授業で学ぶものも多い。それに比較すると,社会生活に於ける前提条件は,幅が広く,多種多様なものがあって,容易に覚えられるものではない。その代表的なものは法律であり,人間が生活して行く上で,遵守しなければならないものである。

それでは,生活する上で,法律をよく学んでから生活を始めるかと云ったらそんな訳ではない。むしろ,生活していく中で,生活の知恵として自然と学び,或いは,何か問題が起こったとき,身近な法律に照らして判断するなど,必要に応じて法律に接していると云うのが実態である。つまり,人間が日常生活を送る中で,前提条件となる法律をきちんと知った上で行動しているかと云ったら決してそうではないことは明らかである。もちろん,法律を遵守しなければいけないことはよく理解している。

このことは,社会生活に於ける前提条件が法律である前に,何かしら別の前提条件がある。それが,一般常識である。それは,よく世間一般に云われていることであり,即ち,一般常識とは多くの法律を網羅した生活の知恵とも云える。ただ,常識は,場所が変われば異なり,特に国を隔てると,常識が常識でなくなることはしばしば起こる。つまり,常識とは絶対的なものではないのである。

そもそも常識とは,自分の経験したことや学んできたことが,善悪の判断基準になったり,方向を見定める基準になったり,或いは,自分の意見を云うバックボーンになったり,と個人の経験則から成り立っている。したがって,個人個人で違いがあり,生活している環境で変わってきたり,一定の決まったものは無い。それでも,多くの人が集まった集団になると,そこにはある特定の常識なるものが作られて行く。それらが,厳正に選び抜かれ,誰もが遵守すべきルール,つまり法律が出来上がって行く。

そう思って,インターネットなどを眺めてみると,単一民族国家の日本では常識が一般化され,ルールになっていくことは自然な成り立ちだが,アメリカ合衆国のように多民族国家では,常識が多様化しており,一般化することが困難である。つまり,常識が通用しない国家であり,こうした国は世界中を見ると多い。むしろ単一民族国家の方が少ない。したがって,常識が通用しない国では,常識同士の争い(主観の違い)を避け,法律が先に作られ,それを国民が遵守するように仕向けられている。だから,州によって法律が違うのは当然のことで,ルールやきまりを先に作って遵守するようにしているのである。

前提条件とは,公理(数学),原理・法則(自然科学),ルール(ゲーム・スポーツ)などである

社会生活の前提条件だけは複雑である

 

以前へ 本質を究める 36  次へ 本質を究める 38    

 

[Reported by H.Nishimura 2015.04.20]


Copyright (C)2015  Hitoshi Nishimura