■本質を究める 33 (No.397)

女性の活用が叫ばれる中,その代表格であったはずの女性閣僚の二人が相次いで辞任した。

  女性の活用の狙い

男女平等と言いながらも,企業のみならず,一般の活動ではいまだに男性が幅を利かせている。10数年前と比較すれば,女性の活用が叫ばれてから,随分経過したこともあって,女性がリーダシップを発揮されていることも多くなってきている。とはいえ,日本社会では欧米とはまだまだ差が歴然としているのが実態である。

衆議院の議員では,女性の割合が39/480人=約8%で先進国では最下位になっている。ただ,第2次安倍内閣(改造)では5人の女性が入閣され,5/18人=28%で,議員の割合から云えば女性の活用を際立たせたものだった。ただ,早くもその二人が脱落している。女性だから,ダメだった訳ではないが,どこか無理があったのではないか。

女性の活用は必要なことであり,仕事上で男女間の差別があってはならない。男女雇用機会均等法が1985年に制定され,職場での男女差別は禁止されてきている。事実,高度成長期に働いていた我々の時代からすれば,現在では随分改善はされている。しかし,未だに女性の活用が叫ばれ続けているのはグローバルな水準にほど遠い状態だからである。日本の女性はそれほど,男性に比較して劣っているのだろうか?決してそんなことはない。優秀な女性も多く見掛ける。

昔と違って,男の均一社会よりも,多様性を重視したいろいろな人が活躍できる社会が求められてきている。その代表的なものが女性の活用で,これまで女性は家庭内に閉じこめられた状態から解放され,社会の一員として,家庭内だけでなく外の社会での活躍によって,社会が充実していくことを目指している。特に,日本の労働人口の減少と共に,益々女性の社会への進出が必要となってきている。

本来は数字合わせではないはずだが,何かしらすぐ数値が出てきて,その数値がいらぬ作用をもたらすように感じてならない。

  女性リーダの実態

男女の機会均等が叫ばれ,会社でもリーダとして活躍されている女性も増えてきている。それ以前でも,男性と比較しても変わらない活躍をされている女性は,男女と云うことなく一人の社会人として認められ,リーダとなっておられた。ただ,男女の差別と云うより,家庭との両立と云う面で,特に女性は,相手の男性の理解が無いと,なかなか家庭と仕事の両立は難しいのが実態だった。

女性の活用が叫ばれるようになって,会社でも女性のリーダの比率を上げようと,積極的に女性のリーダを持ち上げるようになったのは良いが,実態としてなかなかその役割を十分に果たせないように見える女性リーダも居たことは事実で,男女逆差別ではないが,女性が一時期優遇される事態もあった。過渡的に多少はやむを得ないことではあり,数字合わせでは無いが,目標比率などを設けて実施することもあったようである。

これまでの日本の男性中心の社会にあって,女性がリーダとして活躍することは並大抵のことではない。一般女性のように,家庭の主婦役もやりながら,企業でリーダ役を務めることは到底不可能で,家庭を多少犠牲にすることは仕方が無いことであった。もちろん,共働き夫婦が多い昨今では,家庭の仕事も分担が行き届いていて,それでこそ成り立つものである。まして,女性にとって子供の養育などに手を取られる時期は,その難しさを乗り越える努力は,我々の想像を遙かに超えるものだろう。

ただ,企業としては,男女関係なくリーダとしては,企業の推進役であり,ライバルとの激しい競争に打ち勝っていかなければならないし,一方では,部下育成する役割も担わなければならない。仕事中心の男性であっても(家庭は主婦に任せっきりの),企業でリーダ役を務めることは激務である。無理に女性をリーダに仕立てた(数字目標などで)こともあったが,その場になった女性の感想では,本当はしんどい,リーダとして認められているかどうかは部下が一番良く判っているはず,無理に持ち上げても・・・と。なった本人が一番苦しんでいる,と云った事態も多くあったと聞く。

  あるべき姿

男女の本来あるべき姿とは?この世に男,女として生を受けて,共同で生活している。男女平等との意味合いは,全く同じと言うことだろうか?そうではなく,男は男としての,女は女としての特長を活かし,共に豊かな生活をすることだろう。力仕事を男女平等だからと女の人に同じように求める人はいない。また逆に,子供を産むことができるのは女性でしかない。

男女雇用機会均等法のように,企業に於いて男女間の差別をしてはならないと云うことは大切なことではあるが,すべてに於いて同じであるべきだろうか?基本的には,女だからと云う理由で如何なる点でも差別があってはならないと云うことであって,男女に拘わらず優秀な人が上に立ってリーダシップを発揮することは当然のことで,管理職などの女性の比率を云々すること自体は,女性の活躍のバロメータの一つではあるが,本質的には意味のないことであると思う。

ただ,これまでが男社会で,女性に対して蔑視したようなことが行われてきたので,それを是正する意味で,女性の活躍の場を拡げようと過渡期として認めることはやむを得ないことである。グローバルで,日本が余りにも女性の活躍の場が閉ざされているので,何とかしたいと云う政府の思惑は理解はできるが,本当に日本社会にあって,世界と同じ水準にすることが果たして正しい選択だろうか?

余りにも掛け離れた水準を是正する意味はあるが,世界に多様性があるように,日本国民が納得できる日本固有の社会制度があっても良いのではないかと感じているのは私だけだろうか?男女雇用機会均等法ができて20年になり,未だに同じような活動が繰り返されている。それには,従来の制度から脱皮できていないと云うだけではない,日本社会に於ける男女の特性に見合った役割があるからではないかとも思う。

確かに,企業でも大企業では管理職への女性の進出が徐々に増えてきているが,中小企業ではまだまだ低い。中小の経営者に女性蔑視の人が多いとは思われない。大企業と違って,企業の生死に関わることが多い現場では,生活が掛かっていて,仕事のことで毎日が精一杯である。家庭のことを任せられる妻が居ることで,生活の分担が成り立っている。現状の日本の社会で,女性の場合,果たして家庭を任せられる夫が居る人がどれだけいるだろうか?男女共働きと云っても,子供の世話など,やはり女性が分担することが多いであろう。それは母親として最も良い親子関係ではなかろうか。そんな事情を鑑みると,女性には管理職などができないのではなく,そうしたことのできる女性の存在事態が少ないのが実情ではなかろうか。

企業に於いては,むしろ数字目標などではなく,周りも認めるリーダであってこそ素直に成り立つものである。過渡期は歪みが多少出ても仕方がないと云う時代は終わったはずである(20年も続いているのは過渡期ではないのでは?)。男女比率などの数値を云うのは止めて,男女の特長を活かした自然のバランスが取れている状態にするために,日本社会における男女の生活事態から見直されるべきで,高度成長期を企業で支えた団塊世代の我々と違って,生活の男女の分担も随分変わってきている。しかし,家庭での男の役割,女の役割は,それぞれの特長を活かしてバランスの取れた均衡状態があるはずである。男女が共生できる社会であって,共に心の豊かな生活が送れる状態こそが,日本の目指す姿ではないかと感じている。

女性の活用にはまだまだ問題も多い

日本固有の社会で男女のバランスが取れたあるべき姿があるはずである

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[Reported by H.Nishimura 2014.11.03]


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