■本質を究める 24 (No.351)

じっくり考えることができているだろうか?

  最近気になること

最近やたらと目に付くのは,電車の中でスマホ(スマートフォン)を使っている人達である。座席に座って,対面の座席を見ると,半分以上の人がスマホに夢中になっている。対面が学生となると殆どと云ってよいほどスマホを,片手で親指だけで,或いは両手を使って器用に操っている。中身は見えないが,その操作から,次々と画面を見ている様子が判る。この現象は何なのか?

私自身はスマホは持っていない。最近に携帯電話が古くなって交換したが,スマホにしようかとも考えたが,スマホにメリットがなかった。携帯電話は殆ど,家族との連絡か旧友からの連絡程度で,それ以外は使っていない。インターネットはパソコンで,暇なときは2,3時間使っているが,これで十分すぎる。インターネットは始まった頃から扱っているので,その特長は十分認識している。知らないのは最新のアプリであるが,それを必要ともしていない。外出先でスマホでインターネットやゲームをしようとは全く思わない。ラインなどメール以上に便利なツールがあることは承知しているが,それほどやりとりする相手もいないし,使いたいとも思わない。

私は古い人間なのかも知れない。若い人に何がそんなにスマホに没頭させるのだろうか?確かにどこでもいつでも連絡ができ,必要な情報が得られる。携帯電話では物足りないもの(それが何なのかよく判らないが・・・)があるのだろう。電車の中でもあれだけ必要以上に見ているのだから,自宅に帰って暇な時間は多分スマホが話せない中毒状態に陥っているのではないかと余計なことであるが心配する。

コミュニケーションのツールには違いないが,本当に人と人との生身の会話をしているかのように使っている人も居るようである。何とも寂しい姿であるように映ってならない。思えば,自宅に電話さえなかった時代から,電話・テレビが各家庭に普及した時代,さらにはパソコンが始まり出した時代,そして携帯電話,さらにはスマホと時代の移り変わりをずっと経験してきた団塊の世代にとって,確かに便利にはなったものの人間の思考能力は便利さに反比例して低下しているのではないか,と思わざるを得ない。

  じっくり考えることができない

いろいろな情報が容易に手に入ることは良いことだが,そうした情報に振り回されてはいないか。言うなれば情報の洪水の中で身を任せ,流されながら生きている姿である。もちろん,見聞きする世界は昔とは比較にならないほど拡大し,世界中の情報が周りに溢れている。その溢れた情報を整理もできず,自分にとってどうすべきかを考えている余裕も無い有様ではないか。

ざわざわした雑踏では,人はゆっくり考えることはできない。それと同じように煩雑な情報が行き交う中に身を置くと,自分自身をゆっくり落ち着かせることが難しく,ついつい流れに身を任せてしまうような行動をとってしまう。スマホを年がら年中操っている人はその傾向がより酷い状態に陥っているように見える。じっくり自分自身を見つめ,物事の本質に深く迫るようなことができなくなってしまっている。それで済ませてしまっているので,大きな忘れ物をしたような感覚にはならない。

単に物思いに耽ることが良いのではない。じっくり考えることが時には必要なのである。それができなくなってしまっている。そうではない,スマホの特長を活かして上手く使っていると云う御仁もおられると思うが,それは極少数派である。ツイッターやフェイスブックも上手く使えば有効なものであるが,どちらかと云えばその名前通り,つぶやく程度の内容で,じっくり考えて書いている人は少ない。もちろん,つぶやいているだけで何も考えていないとは言い過ぎだが,表現されている部分は自分の主張をしっかりと述べている訳ではない。

せっかちなスピードが考えようとすることを邪魔しているのかも知れない。のんびりとしたスピードで世の中が流れ,行動していた時代と違って,変化の激しい,しかも日本国内だけでなく,世界の変化がすぐさま日本にも影響が出る時代に遭遇している今日,のんびりと考えているようでは世の中から取り残されてしまうのかも知れない。果たしてそうなのだろうか?こうした変化の激しい時代だからこそ,流れに身を任せるだけでなく,じっくりと自分を見つめ,本質的なことを的確に捉え,判断すべきなのではないか。スマホを操っている人を見ながら,そう感じたのは私だけだろうか?

 

若者に警告 スマホの功罪をよく見極めよ!!

急ぐな,沈思黙考 よく考えろ!!

 

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[Reported by H.Nishimura 2013.12.16]


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