■本質を究める 6 (No.274)
安全について考える
機能安全とは?
ここ数年,自動車業界を中心に「機能安全」が求められ,各社でいろいろな取り組みがなされているようである。「機能安全」とは,あまり一般的には聞かない言葉である。この「機能安全」と云う言葉自体は,もともと欧州規格名称“Functional Safety”をそのまま日本語に置き換えた言葉で,この機能安全規格は国際規格である「IEC 61508」をベースとしており,製品カテゴリごとに“専用の規格”が策定されている(製品カテゴリごとに内容は多少異なる)。
一方で,「本質安全」と云う言葉がある。どちらかと云えば,言葉の印象で,こちらの方が安全のように聞こえる。これらの言葉の定義は,次のようになっている。
<本質安全>
・機械が人間や環境に危害を及ぼす原因そのものを低減,あるいは除去する
→鉄道を例にすると,線路と道路の交差部を立体交差にすれば,踏み切り上で事故に遭遇する可能性はない。<機能安全>
・機能的な工夫(安全を確保する機能:以下,安全機能)を導入して,許容できるレベルの安全を確保すること
→鉄道を例にすると,踏み切りの警報機や遮断機の設置(これらが設置されていても絶対的に安全とはいえないが,許容できるレベルの安全は確保している)。*社団法人 日本電気制御機器工業会(NECA)の技術委員会がまとめた報告書。
上記の定義からも,「本質安全」ができれば,それに越したことはないが,我々の実生活では,「機能安全」を目指すべきことも多いのが実態であり,こうしたことからも「機能安全」が叫ばれている。特に,自動車など無ければ,「本質安全」になるが,現代の快適な経済生活に於いては不可欠であり,「機能安全」を高める努力がなされているのである。
機能安全の講習会から
ところで,「機能安全」に関心が高いためか,いろいろ講習会なども開催されている。安全に関心があったので,ある講習会に参加してみた。確かに,出席者の多くが,自動車関連に携わっている企業の面々で,法令の解釈とそれに対応する具体的なやり方などが詳細に説明されていた。質疑応答も熱心で,仕事に活かす努力が漲っていた。
しかし,講義の詳細な説明,及び質疑応答のやりとりを聞きながらも,私自身は何か違っている。安全とは名ばかりで,データベースの管理方法や取引条件に有利なための機能安全確保のやり方など,本来の安全とは違ったものでひとり冷ややかな目で眺めていた。一流企業の熱心な方々に水を差すのは失礼と感じて,その場での質問は控えた。
講習会が終わり,その疑問をぶつけてみた。
【質問】確かに,2年ほど前になるが,トヨタが米国の公聴会で安全に関する資料や説明が不十分で,あたかも安全に手を抜いているかのような印象を世界的には与えたかも知れないが,日本の車の安全性は十分確保されており,不安全を知りつつ出荷しているような車は無いはずである。確かにソフトウェアの部分で,ハードウェア中心の安全性とは多少劣っているかも知れないが,ソフトウェア中心になって顕著に安全が劣化したデータがあるのか?
→ 講習会の講師の説明に依れば,欧州では実際にソフトウェア中心になって事故が自動車に限らず増加傾向になっているデータはあるとのことだった。日本では顕著なデータはないようである。私自身の感覚からも,ハードウェアからソフトウェア中心になっての品質低下は一般的には認めるが,こと自動車など人命に関わるものについては,二重保護など,万全が期されていると信じている。
【質問】「機能安全」と云いながら,内容はデータベースの管理などドキュメント管理に終始して,機能安全の肝心な説明が十分でなく,如何に機能安全を高めて行くか,そのノウハウは全く触れられていない。聞く側にもそのような風潮が見られ,管理することが安全かのように受けとめられている。しかし,本来確保すべき安全をどのような思想で,或いは方針で高めるか,そこが一番重要なのではないか? もちろん,講習会の開催側が自動車メーカではなく,情報処理を専門とする企業であったことを知りつつ,意地悪な質問を投げかけた。
→ その通りであるが,肝心要の機能の安全確保は企業でのノウハウなど,なかなかこうした講習会での実施は困難との回答だった。そもそも「機能安全」の講習会と銘打ってやる以上,安全規格の概論の解説だけではなく,細かいノウハウ部分までの紹介はムリにしても,考え方など肝心な部分をしっかり解説すべきであると感じた。要は安全規格を売り物に,新たな仕事を増やすだけで,或いは,関連するソフトウェアが売れればとの想いであって,真に安全を目指す技術者を増やすことには役だっていない。このことは,今回の講習会だけではなく,よく行われていることで,「安全」の履き違えである。
安全とは
上述の事例でもお判りのように,安全確保と云いながらも,データベースを如何に上手く処理して安全に対する対応策を講じることが安全と勘違いしているフシがある。専門家ではないので,原子力発電の安全性がどのように確保されているのかは全く無知である。しかし,専門家であっても,本当に「安全」を設計している専門家はどれほどいるのだろうか?その専門家が,本当に安全な設計をすることより,安全に関して指摘されたときの対応に時間を割いているとするならば,論外と云わざるを得ない。しかし,現実は,上述した例からしても,本当の安全確保がなされているのだろうか,と疑問附を付けざるを得ない。
もちろん私自身も技術者だったので,絶対安全な設計は企業に於いてはムリであることは理解している。しかし,世の中一般が認める安全な自動車,飛行機(これだって事故が皆無では無いが,安全と思って利用している)のように,技術者がより安全なものを目指して製品化してきている。そこには,安全に対する安易な妥協は許されていない。厳格な部品選定から組み立て,最終出荷までの生産のプロセスの中に安全が組み込まれている。そこには,安全の思想,方針,ビジョンなどが埋め尽くされているのである。それでもって,安全な製品として世の中に認められているのである。
原子力発電についても,確かに稼働させずに済ますことが「本質安全」になることは判っている。しかし,そもそも原子力発電は,原子力の安全利用を目指し,エネルギーそのものが枯渇し,経済成長を支える電力不足を解消するために,危険と隣り合わせたことを知りつつも安全性を確保した原子力発電を開発されたのだと思う。開発者の誰一人,不安全なものを作ろうとしてはいない。それでも原子力発電は,万が一問題を起こすと被害の規模が莫大で危険だと批判する技術者も居る。ともすれば,経済成長も要らないと云う人までいる。そうした主張は,自動車や飛行機でも事故に遭えば凶器になってしまい,そんな危険なものは要らないと云う気持にも通じるようにも思う。
経済成長がすべてとは云わないが,我々の生活が豊かで夢ある将来が描けないようでは,日本の発展などあり得なくなってしまう。そんな世の中になっても,「安全」と云う一言の方が大切なのだろうか。真に「安全」を願う気持は誰しも変わらないと思う。その「安全」を創り出すのも技術者であり,より安全を目指した製品開発をするのも,最終的には技術者の思想・信条であるようにも感じている。「安全」に対しては,誰が何と言おうとも無力な技術者であってはならない。
真に安心・安全な世の中とは,どんなものか? 世界を見渡すと,未だに紛争が絶えない国がある。何が正しくて,何が間違っているか,一概に言えない世界がある。そんな世界でも,技術者は自分の開発する新製品に,安全なものを世の中に提供すること心掛けたいものである。
[Reported by H.Nishimura 2012.06.11]
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