■イギリスのEU離脱 (No.484)
イギリスがEUから抜けるかどうかの国民投票が行われ,一般の予想に反し僅かの差で離脱派が勝利を収めた。このことに依る世界への衝撃は大きく,円高,株安と一瞬にして激変させてしまった。今になって,再度国民投票をやり直すべきと云う声が400万人にも及んでいるとの報道がある。人ごとならぬ出来事である。
国民投票の是非
離脱へ一票を投じた人も,まさか離脱が勝利するとは思わなかったと云う声が聞こえてくる。現政府にお灸をすえるつもりで,警鐘を鳴らしたかった人が,警鐘では済まない事態にあたふたしているようにしか見えない。離脱を扇動した首謀者の中にも,離脱に向けてリーダシップをとり,国民を導いて行こうとするには躊躇する人もいるようである。
要は,結果如何でその後どうなるかを真剣に考えて投票した人がどれだけ居たかが問われている。詳細なことまではよく知らないが,EUになって移民の流入が激しく,労働者階級の生活を脅かされている人が多く,そうした人々の中に不満が募っていると云われている。EUを離脱すれば,移民の流入も抑制され,労働者階級の生活も少しは良くなるとされている。
確かに,EUに残留するか,離脱するかは,国民に選択して貰おうとする,キャメロン首相の思惑は間違ってはいない。その思惑の中に,必ず残留派が勝利するに違いないとの憶測があったのだろう。しかし,現実はそうはならなかった。イギリスとしてEUから離脱し,過去の栄光のイギリスを取り戻したいとの主張は,国民の生活実感に上手くマッチしたのであろう。
ただ,離脱派に投票した中からも多くが,もう一度投票をやり直すべきだと,今になって言っているのは,如何に先々のことを真剣に考えた上での投票ではなかったことを物語っている。こうしたことから,国民投票のあり方自体も考えさせられるようになっている。
民主主義の原則
我々は小さい頃から民主主義の原則を教わり,意見が対立した場合,最終的には多数決で決めることになっている。その考え方自体,今日の生活の基盤であり,集団活動の中での基本原則である。もちろん,多数決が絶対正しいわけではなく,少数意見も尊重して,ことを進めるように習ってきている。
参議院議員の選挙が近々行われるが,これも一票でも多く獲得した人が議員に選ばれ,我々を代表して国会で活躍されるような仕組みになっており,何ら違和感を感じることはない。事実,政策が国民の意向に合わない場合,政権交代が国民の選挙で行われてきている。参議院議員はそうでも無いが,衆議院議員の総選挙は当に,政権を行使できるかどうかの国民の審判である。
日本でも,憲法改正などでは国民投票で審判を仰ぐことになっているが,果たして国民の一人ひとりが憲法にどれだけ関心をもって,改正後の日本がどうなるかを真剣に考えて投票する人がどれだけ居るだろうかと考えると不安な気もしないではない。しかし,これは列記とした公正な手段なのである。
前回の本質を究める(No.51)で,民意=正しい意志 とは限らないと述べたばかりである。それが今回イギリスの国民投票で起こったのである。このことを予想して述べたわけではない。たまたまタイミングが合ってしまっただけである。とにかく,衆愚とは言わないが,民意を問うことの怖さを改めて認識した次第である。
扇動の怖さ
これまで十分な知識は無かったが,今回のイギリスの件を通じて,国民を扇動して国家を破滅に追いやったヒットラーのことを思い起こさせた。独裁者として負のイメージが当を得ている人物だが,圧倒的な国民の支持を得ていたことも事実である。民主主義の原則からは,反していないやり方で,国民を扇動し支持を得て,独裁的な振る舞いを行ったのである。
国民の支持と云うのは,扇動と云う魔法に掛かるといとも簡単に操れる典型的な例であり,今回のイギリスの件をヒットラーと比較するのは少し,極端すぎるのではあるが,扇動に弱い国民と云うことでは同じようにも採れる。扇動の上手さ加減で票の傾きは大きく揺らぐのである。それほど国民投票とは民主主義の原則に則ってはいるが,リスクのある方法であるとも云える。
民主主義の落とし穴とまで云うと少し大袈裟になるが,今回のイギリスの件は,そう表現しても良いような事件である。国の将来を決めるとき,安易に国民の声を聞くことが,果たして最も良い選択なのか?責任ある政治家が,相手を納得させるまでとことん議論を尽くした上で,方向性を見出す方が,国民を安心させられることになるのではなかろうか?もう少し,じっくりと考え直してみたい気がしてならない昨今である。
イギリスの国民投票から我々は何を学んだか?
国民投票は正しい行く末を判断したのか?
[Reported by H.Nishimura 2016.07.04]
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