■本質を究める 41  (No.438)

戦後70年の談話が発表された。歴代内閣のおわびの姿勢を継承したものだったが,何か心を打つものがなかったのは何故だろう?

  安倍首相の談話

今年,戦後70年を迎え,10年毎に日本の総理大臣が発表してきた内容が比較され話題になっている。先の第2次世界大戦で敗北した日本の過ちを国内ならず,世界に発する談話で,1995年の村山談話,2005年の小泉談話と比較されている。

キーワードとされている「侵略」,「植民地支配」について,これまでは素直に,アジアの各国などに多大な迷惑を掛けてきたと述べられているが,今回の談話では,侵略,植民地支配の言葉を使い,戦争に突入した日本の行動,そしてそれによって多くの人々を犠牲にしてきたことなどを,二度とあってはならないと言及している。

もう一つ,キーワードとされる「おわび」,「反省」については,前2者が自ら心からお詫びし,反省の弁を述べているのに対し,今回の談話は,自らの言葉ではなく,「おわび」,「反省」は歴代内閣の考えを継承するものであると述べている。要は,安倍首相自ら心からお詫びはしていない。他人事のように聞こえても致し方ない表現である。安倍首相自らもお詫びの気持があるのか,或いは,繰り返しお詫びはもう良いだろうと感じているのか,どちらかよく判らない。

そして,あやまり続けることを次の世代にまで持ち越すことは止めたい,との表現もあり,戦後の反省にピリオッドを打ちたい思いが滲んできている。確かに,戦争に全く関係も無い世代が,いつまでもあやまり続けることは限度があり,どこかで止めることは必要なことではあるが,事実を正確に認識した上での人間としての気持であり,決して強制されるものではない。戦争を風化させる気持は毛頭無い安倍首相ではあるが,日本人としてあやまり続けるデメリットをいい加減に止めたいとの気持の表れがあるように受けとめられる。

マスコミなどの今回の談話の評価もあまり芳しくない。いろいろな方面に配慮し,政治情勢を加味した安倍カラーを少し押し殺した表現に落ち着いたとの報道もある。もちろん,一国の総理の談話なので,個人の思いだけで突っ走ることはできないのは当然だが,心のこもった談話になっていないのは,安倍首相の人柄を表しているように採れる。

日本をいつまでも卑下した国から,そうでない正々堂々とした国にしたい思いは,安倍首相ならずとも,一般国民もそうだと感じている。それなのに,国民が素直に,その通りだと賛同できないのは,安倍首相の言行不一致が大きく起因しているように映る。つまり,安保法制などの進め具合は,平和国家から欧米並みの普通の国にしようと強引に進めていることは,自らが心から世界に向けてお詫びすることと矛盾はしないものの,比重が大きく前者に傾いている。むしろ,おわびの気持は薄らいでいて,敢えて口にしたくないのではないかとさえ推測される。それを,談話として言わなくてはならないことになり,他人事のように国民に映ったのではないか。首相の言行一致しない態度は,国民の信頼を損ねているものと言わざるを得ない。

  天皇陛下の言動

それと対照的なのは,天皇陛下である。戦争の直接の責任は全くないが,昭和天皇の下で起こった戦争で,多くの国民を犠牲にしたことを今なお深く心に刻んでおられ,ご高齢にも拘わらず,日本軍の戦地となった場所へも,自らの意志で出向き,深く頭を垂れておられる。この姿は,日本人としても非常に気高く感じられてならない。当に,素直にお詫びし,反省する心から沁みだしてきたものであり,それを実際の行動で示されているのである。だからこそ,国民の誰しもが感動するのである。

また,非常に積極的に行動される姿がマスコミの報道から伺える。天皇陛下だからマスコミの報道もより良く取り上げられるのかも知れないが,東日本大震災の被災地への訪問など,国民に寄り添い,心を込めた慰問など,年齢を考えるとなかなかできないことである。それも自らの意志で行かれていることに頭が下がる思いがする。当に,言行一致した態度が伺える。

 

人の上に立つ人は,信頼されることが必要で,その一番のポイントは,言行一致である。自らが言っていることと行動が一致していない人は,部下,子供達,或いは国民から不信感を抱かれる。そんな人を敬うことはできない。つまり,人の上に立つ立場は殆どの国民がなり得る立場である。人(他人)から信頼を得る言行一致を貫きたいものである。

言行一致の重要さを顧みる

 

以前へ 本質を究める 40  次へ 本質を究める 42    

 

[Reported by H.Nishimura 2015.08.17]


Copyright (C)2015  Hitoshi Nishimura