■歴史認識について 2 (No.356)
昨年度一年間,京都の大学で歴史を学んでいることは既に述べた(No.326)。丁度,今週で最終講義が終わり終了する。後期のレポート作成を要請されており,幕末の京都で活躍した「新選組」についてまとめたので,今回はそれを掲載することにした。
「新選組」について
はじめに
幕末の歴史の流れは激動であり,各藩,そして個人の思想も変化に富み,未だに私自身では整理が十分できていない。尊王攘夷かと思いきや,いつの間にか開国に変わってしまっている。その流れを読めず,一心不乱に生きた者が非業の最期を遂げると云った時代で,レポートとして何を取り上げようかと迷ったが,京都の歴史を学んだ以上,新選組はその生き様に賛否両論があるが,上辺だけの新選組ではなく,史実に基づいた理解をしておこうと取り上げることにした。
新選組の結成と目的
新選組の活躍の舞台は京都が中心であるが,そもそもの起こりは,14代将軍家茂が上洛する際に,幕府がその警護に浪士を募集したことに由来する。この募集を企てたのが清河八郎で,脱藩浪士や草莽浪士を幕府側に付け尊王攘夷をさせようとするものであった。そこで近藤勇,土方歳三など試衛館道場の若者や,水戸浪人の芹沢鴨などが参画した。彼らはその時点では200人強からなる大集団の一員でしかなかった。そして将軍の上洛前に京都に入り,朝廷に尽忠報国の旨を記した建白書を一同が署名して提出した。これが「浪士組」であり,将軍が天皇に挨拶したら直ちに帰府して攘夷を行うことを手助けするため,将軍と共に帰ると云うのが清河の狙いだった。しかし,近藤達はそもそもの狙いが在京の将軍を守り,攘夷を実行することであり,それがなされないまま東帰することはできないと「浪士組」から離れ京都に残ることになり,その居残りの浪士達が会津預かりとなり,壬生村に落ち着き,17,8人の壬生浪士となる。その後,将軍は東帰するが,壬生浪士は江戸に戻っても攘夷ができないと推察,それよりも京都に残って攘夷ができないことで荒れる京都を鎮圧させることを目的とした仲間で,これが「新選組」の起こりである。彼らが正式に「新選組」と呼ばれるのは,もう少し後の八月十八日の政変の後のことである。
京都での役割
芹沢,近藤達の壬生浪士は,将軍が京に留まって攘夷を実行することを建白書にしていたが,同じ攘夷でも過激派は将軍が帰っても攘夷できない違勅の幕府を討つ論法に切り替わっていた。そこで,壬生浪士達はこれらの過激派を阻止する,つまり幕府を大切に守るために京に残っていた。そして,八月十八日の政変では,新選組は会津藩の指示で御所の門を固める要員として動員されている。公武合体派の巻き返しを図る潮流を作る一部の役割を担っていたのである。この前後で,近藤と芹沢の考えにギャップが生まれ仲違いになり,芹沢は粛清されてしまう。近藤達の思いは,将軍が再び上洛し攘夷実行を下すことを待ち続け,それが実行できないうちに禄位を与えられては気持がゆるむと,会津藩からの禄位も辞退して,攘夷を果たす仕事をしたいと願っていたようである。京都に残った自分たち「新選組」だけが,真に攘夷を果たすことができると強弁し続けていた。しかし,一会桑政権になると,新選組はその一員として京都市中の警固に当たることになった。そこで近藤は不満を漏らす。新選組の本来の目的である「尽忠報国」とは掛け離れた役割で,市中の見廻りなどの奉公をするつもりはない。将軍が攘夷の決断を下さらず江戸に帰られるのであれば,新選組に解散を命じるか,個々に帰郷させるか,いずれかの処置をするよう願い出ている。近藤達の初志貫徹の思いの強さには感服する。
池田屋事件
池田屋事件は新選組の活動では頂点とも云うべきものであるが,攘夷派の同士討ちで,斬ったのが新選組で,斬られたのが長州系の志士であった。新選組の近藤たちは,将軍の江戸帰府に反対したが叶わず,将軍は江戸の戻ってしまい,そのため京都の警備が手薄になり,長州藩士や激派の浪士が入京し,京都を放火するなどしてかき乱していた。それを取り締まっていたのが新選組で,その居場所を探索していた。池田屋で会合がある目星をつけていたが確実ではなく,二手に分かれてもう一カ所を土方達が踏み込んだが空振りで,池田屋には守護職・所司代・会津藩なども踏み込む予定だったが遅れたので,近藤達10人ほどの新選組だけが踏み込むことになった。周囲を警戒する者を数人外に配置して4,5人で突入したが,相手の人数が多く強者で,かなりの激戦になったようであるが,土方隊が到着し手助けをしたようである。そして殆ど片が付いたころに守護職・所司代などの援護部隊が到着し,結果としてすべてが新選組の手柄となったようで,幕府から個人名指しての褒賞があった。この事件で新選組の情報収集力,探偵能力,そして死を恐れぬ際立った剣客集団としての戦闘能力が十二分に証明されたことにより,治安維持部隊的性格が前面に押し出されて行った。そしてこの事件が新選組の名を全国的に知らしめる出来事となった。
「尽忠報国」の思想
「尊王攘夷」と云う言葉はこれまで学んだ歴史の中にも出てきて馴染みのある言葉だが,「尽忠報国」は初めて耳にした言葉である。言葉通り,忠節を尽くし,国から受けた恩に報いることであるが,そもそも浪士募集の時に書かれていた文言で,当時の尊王攘夷と同じ意味合いを持っていたようである。後に新選組の中心のスローガンにもなる言葉であるが,近藤勇は当初は一貫して「尽忠報国」の思想を持っていたようである。当時のことであるので,国が朝廷になったり,幕府になったりしながら,攘夷を以て日本国を守ることであった。新選組と云うと,これまでの小説や映画の影響かもしれないが,京都の見廻り役で池田屋事件に代表されるように,人切り集団のイメージが強いが,基はと云えば「尽忠報国」の思想の下に集まった浪士集団である。この思想そのものは血気に逸る若者を惹きつけるには十分だったように感じてならない。その中で近藤勇達は新選組として,本来の目的と実際上の京都での役割の乖離に激怒し,「尽忠報国」が実行できないようならば解散も辞さないと云った強い意志の持ち主だった。ただ,新選組も幕府の攘夷実行が見込めなくなってくると,増えたり減ったりする浪士達をだんだん思想集団で縛り付けることが困難となり,規則で縛る集団へと変化して行ったようである。
近藤勇の人物像
これまで近藤勇の名は,新選組の組長として羽織袴のしかめっ面をした姿を知っているだけだった。しかし,今回歴史を学ぶことで,その人物像を改めて知ることになった。浪士組の一員として上京し,直ぐに江戸の戻るという多くの仲間と袖を分かち,攘夷を貫き,国を守ることに捧げた生き様は共感するところがある。また,ならず者の多い浪士達を,途中からではあるが,リーダとしてまとめ上げた手腕は,幕末の激動に時代にあって称賛に値する。だが,これまでの歴史から学ぶ新選組は,余り良い印象ではない。明治時代になり,薩長が主な役職を占め歴史そのものが薩長で作られつつあった時代に,新選組は逆賊のような扱いだったようである。その印象が強い。近藤勇の書簡など見向きもされなかった事実からも,史実を正しく読み取ることの難しさを痛感する。時が経てば経つほど,記憶も曖昧になり,資料そのものも疎んじられ,伝聞が恰も史実であるがごとく伝わって行くように感じられる。何冊かの新選組の部分を読んだが,近藤勇の人物像がくっきりとできた訳ではない。殺戮が常に行われていた時代,思想が激変するのが当たり前だった時代,近藤勇は「尽忠報国」を貫き通した若者の姿として感銘するものがあった。
新選組の末路
大政奉還され,王政復古の号令が出され,薩長を中心とする新政府軍が,徳川慶喜の幕府を「朝敵」と見なして鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)が始まった。幕府側の新選組は善戦するものの,剣では優っていても砲弾にはかなわず敗退した。江戸に戻って新選組は甲陽鎮撫隊として最後まで戦いを挑んだが,新政府軍には追い込まれ,当初からの同志の永倉達とも袂を分かっている。組織の再編をし,会津での決戦を前に,流山で近藤は捕まり,その後処刑されている。土方は生き延び,箱館五稜郭で戦死している。維新として活動した部隊の末路は,新選組だけでなく暗澹とくらいものになっている。それほど,激動の時代に先を見通せる人物が居なかったようで,巨大な歴史的課題に押しつぶされた新選組であったと云える。
さいごに
一年間京都の幕末史について勉強した。当初の知識からは,随分詳細な部分に入り込んで幕末の京都の出来事を具に学ぶことができたように思う。しかし,幕末の激変は,私の頭の中で整理が進みつつあるが,未だに十分ではない。それは,余りにも時代の変化が激しく,しかもその変化が各藩で違い,同じ藩の中でも思想対立が行われると云う,さらには人物が次から次へと変わって行く様は,日本史の中でも特筆されるものである。頭で整理が十分できることを待つことなく,京都の街並みを歩きながら,京都の幕末が,朝廷,幕府入り交じって,次の時代を産み出す大舞台であったことは,つい150年前のことだったと,しみじみ感じている次第である。京都の寺社仏閣をカメラ片手に巡ることが趣味の一つである私にとって,今回の講座を通じてこれまでと違った被写体を見つけ出すことを楽しみにしている。
参考文献
「新選組」松浦 玲著(岩波新書)
「歴史のなかの新選組」宮地 正人著(岩波書店)
「新選組」大石 学著(中公新書)
[Reported by H.Nishimura 2014.01.20]
Copyright (C)2014 Hitoshi Nishimura