■歴史認識について (No.326)
学生時代には必ず歴史を学ぶ。小学生時代の我が町の視野から,中学生になると日本や世界に拡がり,高校生になるとさらに詳細な内容にと拡大していく。しかし,歴史はその時代の背景や出来事なども学びはするが,受験勉強の影響で年代を記憶することが中心になってしまう。遠い昔,何年にこんなことがあったと云う記憶である。
歴史認識の違いは当然?
最近,橋下市長の歴史認識などが話題になっており,戦時中の,たった70年ほど前のことをあたかもその当時居たかのように語っているが,いろいろな資料を見て述べておられるのだろうが,一側面からの認識でしか無いように感じる。弁護士なので論点を整理して,相手をやっつけることに長けておられ,普段の発言を見る限り,極端な発言で相手を威圧し,自分の土俵で勝負することを得意とされている。ただ,歴史認識は,歴史的事実は唯一の同じものであっても,資料は誰かの目を通して見たものであって,違った立場の人が見れば全く逆の見方をなされることもありうるのである。日本の歴史認識が,中国や韓国のそれと違ってくるのは当然のことである。
たまたま今年は大学の講義で,幕末の歴史を学んでいる。そこで感じることは,現代でもそうだが,過去の歴史を振り返って眺めることは,事実は一つであっても,それを見る側面はいろいろな角度があり,その認識も見る角度で大きく違ってくると云う感じがしてならない。まして,歴史が遡れば遡るだけ,遠くから望遠鏡で眺めるようなもので,一般教科書に載っているようなことは,ほんの点でしかない。しかも,歴史は誰かの視点で書き残されているので,一つの側面から見たものである。その時代に焦点を当て,様々な詳しい資料を基に,いろいろな角度から眺めてみて,初めて点や面だったものが形を現してくる,つまり立体化してくるのである。だから当然,立体化すればするほど見る角度で歴史認識が違うのは当然なのである。
このようにたとえ事実としては一つであっても,歴史認識としては無数に生じるのである。どの認識が正しいと云うことはない。各々の見方でそのように見えたと云う認識なのである。
京都の大学で歴史を学ぶ
昨年からであるが時間を見つけて,京都の大学で2回/週程度であるが,通常の大学生と一緒に科目履修生として授業を受けている。そうしたチャンスが拓かれており,今年は「京都デザイン論」と「京都学 歴史編」で,別々の大学へ通っている。今回は,歴史についてなので,後者のことに触れる。そもそも技術者である私が,なぜ歴史なのか?と云われると,これまで京都の寺社仏閣を巡ることは,趣味の写真の一環で,四季を通じて何十回と訪れている。ただ,こうした寺社仏閣には古い歴史がある。その一つひとつを詳細に知ろうと云うのではなく,京都の街並みを歩く限り,折角の歴史ある街を少しでも知り,興味を抱くことで見方も変わり,撮る写真一つにも違いがあるのではないかと思ったからである。
講義は,週1回90分の講義で,京都を舞台にした幕末の歴史である。特に,幕末に京都でいろいろなことがあったので,そのことを学んでいる。まだ,始まったばかりなので,明治維新の始まりとされる,ペリーの来航による徳川幕府の動揺しているところからである。日本史で高校時代習ったが,高三の受験間近の時期で,内容を詳しく理解しているのではなく,その後,何度か繰り返される幕末を描いたテレビドラマ(特に,「花の生涯」以来の大河ドラマなど)を通じて,断片的に繰り返し,繰り返し想い出しながら見ている程度の知識しかない。
たまたま,「八重の桜」(今年のNHK大河ドラマ)でも,幕末の一部で,京都の舞台にした場面もあり,重なるところもあるが,講義は史実を基に進んでおり,興味深く受講している。
ペリー来航と開国
これまでの私の瑣末な知識では,ペリーが浦賀に黒船でやってきて,それに驚いた江戸末期の幕府は開国を迫られ,やむなく不平等な条約を結ばされ,開国した程度で,ペリーがアメリカから特使として来たことも太平洋を横断して,長い時間を掛けてやってきたと思っていた。今では飛行機で10余時間で行くことができるが,多分たいへんな長旅だっただろうと。ところが,実際には,その当時のアメリカは西海岸が拓けてなく,東海岸のバージニア州のノーフォークを前年の11月24日に出航,大西洋を渡り,さらにはアフリカの喜望峰をこえて,セイロン,シンガポール,マカオ・香港,上海,沖縄,小笠原諸島を経由して,東京湾に1853年7月8日に現れている。実に,7カ月以上に及ぶものだったとのことである。
当時,アヘン戦争などアジアの各国がヨーロッパの列強に悉く敗れ,植民地化していく時代にあって,日本はそうならずに済んだことは,不思議なことである。日本がその当時一枚岩になっていたわけでもない。対等に戦える戦力を持っていた訳でもない。ペリーの来航で日本への開国要求に対し,日本の事情から時間稼ぎをして翌年まで延ばし,翌年(1854年)の日米和親条約を結んだとはいえ,実際には,捕鯨船の燃料補給や漂流民の保護を認めただけで(下田,函館を開港)通商条約は結んでいない。
その2年後(1856年)にハリスが下田にアメリカの駐日総領事としてやってきて,通商条約の締結を求めてきたが,それも1年間延ばして各大名の意見を聞くなどしていた。また当時の朝廷の孝明天皇が鎖国攘夷主義で幕府からの献上物(勅許を得るための賄賂)にも目もくれない状態であった。しかし,アジアの情勢(アロー号事件で中国がイギリス・フランス連合軍に敗れ,植民地化が進む)などの情報など開国の回避が困難な状況を悟り,ほぼ勅許が得られる状態にまで近づいた。ところが,公家の多くのデモに合い覆り,勅許は得られない状態になった。そこで登場したのが井伊大老で,勅許を得られないまま日米通商条約は締結された(1858年6月)。
この日米修好通商条約では,神奈川,長崎,新潟,兵庫の四港を開港している。しかしこの条約は不平等条約と云われ,治外法権,関税自主権の欠如,などである。確かに平等では無いにしても,その当時の対外折衝としては,海外事情の情報も入っており,一つ間違えば植民地化されていたこと,また関税率も20%と当時の一般的な値で不平等とまでは云えないことを考慮すれば,現在の日本の外交よりも,しっかりした交渉を行い,時代の流れになっていた開国をソフトランディングさせたとも云えるのである。当時の交渉役が若い外交官の岩瀬忠震(ただなり)と云い,日本を開国に導いた重要人物だが,米国のハリスの名前は出てきても,岩瀬の名前は殆ど知られていない。私自身もつい最近まで全く知らなかった。
現在の弱腰外交に改めて情けなく思う次第である。
史実は一つであっても,歴史は見方によって変わる
我々の知る歴史とは誰かが見た側面から書かれたものである
[Reported by H.Nishimura 2013.06.17]
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