■レポートの書き方 (No.068)

仕事で報告書を書く機会は多い。議事録をとったり,出張報告書を書いたり,実験の結果をまとめたりなど各々書く目的は違う。そうした報告書の中でも,自分の言いたいことをきっちり読み手に伝えることが必要な報告書もある。ここでは,プロジェクトに関して第三者的観点から報告したり,あるいはプロセスを改善を提言したりと云った類の報告書のまとめ方について説明する。開発側の仕事を品質関連の立場から報告したり,プロセス改善プロジェクトのメンバーがプロセスを使っている人たちに対して改善提案をする場合などである。

この場合,難しいのは自分がやったことの報告や反省ではなく,それぞれリーダとなる人が居て活動をしており,主体者はあくまでも自分ではなく別の人で,第三者的立場からレポートを書くことである。従って,内部に入り込んでではなく,外から観察してレポートをまとめることになる。

  全体把握をすること

当事者でないと云うことは,全てが把握できているとは限らない。外から見ていると,つい表面的なことに囚われやすい。したがって,本人は全体が掴めていると思っていてもほんの一部だったり,ある側面からだけしか見ていなかったりすることが多い。一番多いのは,自分の経験だけを通して事象を捉まえようとすることである。これは,云うのは簡単だが非常に難しい。経験していないことを,想像して捉えることは並大抵のことではない。そのために一番有効な方法は,色々な人の意見に耳を傾けることである。自分は全体を見ているつもりでも,結構きついフィルターが掛かっていたりすることはよくあることである。特に,仕事の経験の幅がなく,ずっと同じ職種の仕事をしている人などは,自然と偏りをもった見方になってしまうことが多い。

全体把握が難しいのは,若い人である。経験が浅く,全体把握と云われても,部分的なことさえ把握するのが精一杯である。それなのに全体を見ろと云われても困る,と云ったところだろう。こうした場合,素直にベテランの人や,先輩に全体ではどうなっているのか,関心を持って聞くことが一番である。その上で,自分の中で全体を考える習慣をつけることである。

なぜ,一番目に全体把握を取り上げたかと云うと,現象をいくら深く分析し,深い考察を加えて,視点もよく課題を把握できても,全体を見ていないと,部分最適にしかならない。もちろん,いいかげんなレポートよりも効果はあるのだが,全体の視点が抜けると,部分最適であって全体最適にならないことがあるからである。折角,深く良い考察ができ,指摘ができても,全体では有効では無い場合がある。

少なくとも,改善提案など提言するレポートにおいては,全体把握が重要なことを先ず念頭に置いて欲しい。

  課題の抽出ができること

次に,改善や提言をしようとする場合,その前に課題をきっちり抽出できなければならない。しかし,一言で課題と云ったが,これを抽出するのが,出来るようでなかなかできないのである。こうした課題が上手く抽出できない人には,次のような特徴がある。

  1. 他人(特に主体者)の言動に左右されやすい
  2. 見えている現象を裏返しているだけである(開発が遅れている →課題:開発を遅れないようにする)
  3. 自分中心で,日頃から関心が薄い(レポート作成になってあわてる)
  4. 目指している目標がよく判っていない(現状とのギャップが判らない)
  5. 見えている現象,発生したことが課題と考えている
  6. 物事を深く考えようとしない
  7. 内容よりも形式,レポートの中身より期限が気になる

このように書くと,いくつかは自分に当てはまるものがあると感じた人は多いのではないだろうか。要するに,物事の事象を深く捉え,表面的な現象から,それを引き起こしている真の原因を追及し,そうして見出した真の原因に対する解決策を検討することである。こうした手法は別の機会に触れることにして(参考:課題抽出・解決法),繰り返し経験を積み重ねることである。

最近の若者(若者だけではないが)は,じっくり物事を考える習慣ができていないので,殆ど課題抽出ができない。教育のやり方の問題もあるかも知れないが,問題提起,課題提起されたことに対する解決方法はそこそこ訓練されている。しかし,自らが課題を抽出してそれを解決することができない。スピードが求められる現代なので,じっくり考えていたら遅れてしまうと云うのも言い訳の一つではあるが,自らの頭脳を訓練して,創造的な活動ができるのは人間だけである。それを活かさない方法は衰退しかないのではないか。

  論理的に説明,指摘ができること

次は,提言するには,相手を十分説得できるものになっていなければならない。ところが,これもなかなか難しいのである。難しいのではなく,論理的な考え方の出来ない人が多いと云った方が良いかもしれない。論理的なことそのものは当たり前で,身に付いたら何でないことである。一般的に,技術者は,他の人に比較すると論理的であると云われている。数学の証明が論理的でなければならない。

演繹法で,或いは帰納法でと,そこまでいかなくても,先ず,自分のレポートの中で,論理的な矛盾を起こさないことである。極端な例は,最初の方で「Aは白である」と云っておきながら,違う箇所で「Aは青みがかった・・」と云った具合である。ここまで明らかな例は無いにしても,結構矛盾している例は多いのである。こうしたことが無いように,書き上げたレポートは,再度じっくり読み直すことはしておくべきである。最も効果的な方法は,第三者に読んでチェックして貰うことである。余裕のある場合や,そうした機会がある場合は有効に活用すべきである。結構自分の思い込みで書いてしまっていて,気づかないこともある。

もう一つ,多い例は,一つの現象からすぐさま結論を導き出そうとしているケースである。或いは表面的な現象だけで,奥にある深い原因を探らずに結論を導き出そうとするケースもある。間違いないケースも考えられるが,現象からすぐ結論は避けるべきである。こういった場合には,違った例を示されるなど,すぐ反論されることが予測されるからである。しかし,これも深く考えていない人は,よくやることである。

レポートの書き方などには,よくこの論理的なことを取り上げられているので,専門的な部分はそれらに譲る。(代表的なものは,「考える技術・書く技術 バーバラ・ミント著(ダイヤモンド社)」など)

  文章の表現力があること

あとは,文章表現力である。言いたいことが十分判らず,論点がぼけていたり,言い回しが長く,本人は判っていても読み手に理解しづらいような表現をしている場合がある。言いたいことは,簡潔明瞭,箇条書きにする方が判りやすい。

これも若い世代は,パソコンの普及から文章表現力が低下している。つまり,パソコンを使うようになって以来,カット&ペーストができるので,自分が作らずとも,他人のものを借用することができる。手っ取り早くまとめるにはカット&ペーストは非常に強力な手段である。ところが,文書の中身を十分自分の頭の中に入れないまま,作業としてやってしまうため,自分の思いとずれていても気がつかない,或いは気がついても直すことができないのである。こうしたことは,自分で深い考えを巡らしたりする機会を失うことにつながっている。その結果,自分で文章を作る能力,表現力の低下となって表れてきているのである。

会話ではおしゃべりなのに,文章をまとめさせると,特に,自分の主張をなかなか表現できない人がいる。その場の流れではあれこれ雑学を駆使してしゃべることはできても,きっちりまとめた文章で表現させると,まとまりがなかなかつかないタイプの人がいる。こういう人は頭の回転は速く,よく頭の切れる人である。文章としてまとめる訓練さえすれば,すぐに上手くなるはずである。とにかく,情報理論からは上手くできても自分の思っていることの7割しか伝わらないとされている。それだけに,主張したいことを上手く表現する技術を身につけることは重要なことなのである。

あなたはレポートがきっちり書けていますか?

上司からレポートの書き直しをさせられたり,添削をされたことはありませんか?

 

[Reported by H.Nishimura 2008.05.26]


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