■実家売買顛末記 1 (No.572)
私の実家の売買契約がようやく完了し,馴染み親しんだ実家を手放す哀愁を感じながらも,ほっと一息ついたところである。昨今,空き家問題は深刻化してきており,同年代の仲間との話題にも,実家の処分をどのようにするかとの悩みを語る人も多い。そんな中,何とか一仕事を終え,その顛末記を述べ,何らかの参考にでもなればと云う思いである。
実家を手放す決断
子供の頃を過ごした実家は離れているとは云え懐かしい想い出が一杯ある。定年後直ぐにお袋が亡くなり,空き家になっていたが,車で1時間半ほどなので,裏の畑で野菜を作ったりしながら,ご近所付き合いもできる範囲でしていた。しかし,いつまでも続けることは不可能で,70歳も過ぎたら手放そうと前々から,思って(計画していた?)いた。
今から3年前,お袋の7回忌を実家で済ませた時に,そろそろ実家を手放そうと考えていた頃でもあり,丁度弟妹も来て居たので相談することにした。齢を重ね70歳近くになると,実家に来ることもだんだん億劫になり,元気な今のうちに処分することを持ち掛けた。弟妹も実家を離れ,お墓参りや法事などの行事のあるときに来る程度,「兄貴の判断で処分したらよい」と余り実家に未練は無い口ぶりだった。それで決心がついた。
実際,実家の土地建物は,親父が亡くなったとき,長男である私が遺産相続する形を取っていた。したがって,私の独断でも良かったのだが,念のため弟妹の承諾も得ておくことにした。
旧中山道沿いの旧家
我が家の実家は旧中山道の60云番目の宿場町にある。実家の前の道が中山道で,その道に沿って宿場町が長々と約2qにわたっている。その端には琵琶湖に注ぐ一級河川があり,歌川広重が木曾街道六十九次の一つとして,一級河川の光景を描いている。
宿場町特有の街並みが続いていて,商売しておられる店が連なってはいるが,昨今では賑わいは殆どなく,寂れた街になっている。私の実家のような空き家もあり,商売していた店もシャッターが下りているところも所々に見つかる。実家は典型的な,宿場町の家の構えで,間口が狭く奥に長い家屋である。間口の広さで税金が決まったと云う江戸時代(間口税が導入),間口を狭くする家が多かったようである。
だから私の実家は,5m強しかない間口だが,建坪は約100坪ほどあり,母屋に中庭(前栽)が続き,蔵(土蔵)と物置小屋から成り立っている。裏には畑と約1反の屋敷田がある。屋敷田は親父が亡くなって以来,稲作はやっておらず,空き地として雑草が生い茂っている。この空き地がなかなか厄介な持ち物なのである。
こんな古い家に高校まで生まれ育った私だが,大学から下宿して,さらに社会人になり,一度も実家で暮らすことなく,それ以来ずっと離れている。私の兄弟は,弟妹が居るが共に実家を離れており,暫くは両親二人だけが暮らしていたが,親父が20年ほど前に亡くなり,お袋も亡くなって9年になる。
我が家の状況
私自身,長男であり実家を継ぐことを検討した時期もあったが,仕事の関係上実家から通勤することは困難だったので,大阪に狭いながらも庭付きの一軒家を購入し,場合によっては(定年後など),大阪の家を売って実家へ帰ることも考えていた。
しかし,長年大阪で暮らすと,こちらへの愛着も深まり,且つ友人関係も増え,実家へ戻っても田舎での生活に馴染まなくなって,両親がまだ健在だった時期に,既に実家に戻ることは無いと宣言していた。親父が脳梗塞で倒れたときなど,お袋が付き添っていたが,週末は毎週のように大阪から病院に通い,お袋を休ませることにしていた。弟妹もときには交代してくれていた。
親父が亡くなり,お袋一人で生活をしていたが,だんだん独りでの生活が難しくなり,大阪へ引き取ることも検討し,一時期来阪したこともあったが,なかなか生活に馴染めず,結果,田舎で介護施設にお世話になることになった。それも長くはなく,お袋も亡くなり,実家は空き家になってしまっていた。
空き家になったとはいえ,長男であったこともあり,実家の近所付き合いは続けており,裏の畑で野菜などを作ったりしながら1回/月程度に戻って家を管理していた。それも10年近くになり,大阪から通い続けることにも限界があり,息子たち家族も家を建て,実家を継ぐことも無くなり,いよいよ実家を離れるときがやってきた。
(続く)
実家には様々な想い出がある
手放し難い思いと現実との葛藤である
[Reported by H.Nishimura 2018.03.26]
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