■大企業の品質問題 2 (No.560)

品質問題の続き  

  企業風土の変化

品質問題の多発の背景に,企業風土の問題が関わっているように感じられる。前回も述べたように,高度成長期の日本の品質は世界に誇れる高品質で,それが大きなセールスポイントになっていた。したがって,今日のようなデータの改ざんなどが発生することは皆無で,従業員一人ひとりにまで,品質の重要性が染みわたっていた。

デミング賞への挑戦やQCサークル活動が活発に行われ,企業風土そのものが品質第一になっていた。これらの活動は,利益確保と共に非常に重要な位置付けになっていた。高度成長期とあって,品質と利益確保の両者が成り立っていた。これが日本の企業風土であり,後述する欧米企業との品質に関する考え方が根本的に違っていた。

ところが,昨今の実態を知らされると,昔の日本企業の風土は何処へ行ってしまったのかと嘆かざるを得ない。欧米企業との取引も多くなり,グローバル化したことによる影響なのだろうか?100%良品が基本である日本企業と,確率論で割り切る欧米企業との融合で,企業風土そのものが変化して行ったのだろうか?

その影響が全くないとは言い難いが,明るみになった企業の現象を見ているとそれだけではなさそうである。従業員そのものの質の変化,即ち正規社員で構成されたときと,非正規社員が多く入り込んだ構成とでは,品質教育一つにしても大きな差が歴然としており,良き風土は長い間培われて出来上がっているが,風土の悪化はたちまちに起こってしまうことを示しているようにも感じられる。データの偽装を悪いこととの認識が無かったと云うのは,余りにも酷く,風土がここまできてしまっていることに震撼せざるを得ない。

また,他の企業で起こったことを「他山の石」としていない風土にも気に掛かる。真剣に自分の属する企業を思うなら,他で起こったことが自分たちのところでは起こっていないか,振り返るのが当然な行いである。まして,自分の企業の他部門で起こっていた悪いことが,引き続き別の部門では続けられてしまっていると云う実態は,ここまで日本企業は落ちぶれてしまったのかと嘆くのは私だけだろうか?

  なぜ,日本の品質が尊ばれたか

世界に日本の品質の良さが認められたいたかを実体験することがあった。嘗て,米国の一流企業に電子部品を納入する機会があり,その際,米国企業の工程をこの目で確かめるチャンスに出くわした。

先ずは受入検査である。日本の製品は100%良品であることが基本であったが,米国で受け入れられている製品は,良品率が100%でない物が当たり前で,契約で不良率何%以下であることが判定基準で,抜き取り検査で合否の判定をされていた。だから,受入検査部門の判定で不合格となったものが,目につくところに一杯積んであった記憶がある。これが世界基準なのか?と。

当時の日本では,殆どの製品が1個でも不良品が混じっていれば不合格であった。確かに製品によって,デジタル的に合否の判定ができないものもあり,総てがそうだとは云えなかったが,抜き取り検査での基準も厳しいもので運用されていた。日本の品質システムは,部品・材料段階から良品のものを組み合わせて良品を作り出すことが基本だった。

一方,米国での組み立て工程では,作業者が自分の組み立てるものの責任を負わされており,例えば明らかな不良品でも自分の作業に支障が無ければ組み立て,次の工程へ送ることが作業として行われており,日本の組み立て工程のように,作業者が不具合を気づけばそこで,不良品として排除され,最終工程には良品として組み上がったものしか届かないようなシステムにはなっていなかった。したがって組み上がったものも何%かは不良品が混ざっていても,平気な顔をして作業を続けていることに驚いたものだった。

世界の品質基準と日本の品質基準の違いをまざまざと感じた一面であったが,多少高くとも日本の製品が求められる理由が,実際この目で現場を見て知り得た瞬間だった。工程見学しながら,日本人として誇らしい気分だった。

 

日本の高い品質を早く取り戻して欲しい

 

[Reported by H.Nishimura 2017.12.25]


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