■安全保障関連法案の行方 (No.386)

衆議院にて安保法案が可決され,参議院での審議が始まっている。日常生活になかなか結びつかないものであるが,日本の将来を考える上では非常に重要なものである。一部,デモなどで法案の廃止を訴える運動が始まっているが,まだまだ盛り上がりには欠けている。この法案について考えてみる。

  なぜ,強引に法案成立を目指しているのか?

そもそもこの集団的自衛権などの安保法案を与党多数の力で強引に進めようとしている背景の一つは,先般安倍総理が米国を訪問し,国会の承認も得ていない段階で,オバマ大統領に日本の集団自衛権の行使を約束してしまったことにある。もともと,安倍総理の頭の中には,昨今の世界情勢,特に中国の軍事力増強による横暴な振る舞いなど,将来の日本を見据えて,集団的自衛権の行使を容認したい考えがあり,憲法改正には世論が不十分な状況から,現憲法の解釈内で早々に認められたい思いが強い。

小さいときから,祖父の岸首相から薫陶を受け,安保法制には少なからず関心が強かったようで,祖父の思いを自分の代で果たしたい思いもあるやに聞き受ける。日本の将来を考えたとき,現日本国憲法の下で,武器を使用して戦うことは,国内で日本の存亡が脅かされるような危機において,個別的自衛権として自衛隊が活動する以外は原則認められていない。これを戦後70年守り,平和を維持してきた事実は厳然としてある。しかし,戦後70年経ち,世界の情勢も大きく変わり,世界を具に見ている安倍総理の目には,このままの日本ではいけないと映っているのであろう。

そうだとしたら,多くの国民を騙すようなやり方で多数の論理で強引に進めることが最適なのだろうか?祖父からの薫陶がそれほど浸透しているのだろうか?よく判らないが,裸の王様ではないにしても,国民の信頼に応えるやり方ができないのだろうか?前から感じているが,自分の思いを貫き通す意志は強いが,どこか坊ちゃん育ちで今一つ頭が切れない脆さが気になって仕方がない(歴代の総理も素晴らしい人物は少ないが・・・)。総理に向かって誠に失礼な表現だが,私の安倍総理に関する素直な感想である。

  多くの憲法学者始め,法制局長官達も違憲と主張

国会での答弁を初めとして,多くの憲法学者が集団的自衛権の行使は憲法違反だと主張している。学者と政治家とは違う。日本国民を行動によって守るのは,学者ではなく,政治家であり,政治家が大衆に迎合することなく,将来を見据えて決断することは大切だとの思いがあるようである。確かに,国民大衆は世界情勢に長けている訳ではなく,新聞やテレビのマスコミ報道に意見を左右させられてしまうことは多い。

安倍総理は,今は国民の理解は十分得られていないが,いずれ理解して貰えるとの判断のようである。聞きようによっては,日本の将来を判断するのは,世界情勢に長けた政治家しかいない,と言っているようにも聞こえる。しかし,国民もこれだけ情報の発達した時代において,世界情勢にめくらでいる訳ではない。北朝鮮,中国の脅威は連日報道され,情勢に疎い訳ではない。日本の国として平和憲法の下で過ごしてきた戦後70年が,それほど世界の足枷になっているとは思えない。

国連の決議で連合国軍が形成されても,日本の自衛隊は現憲法下では前線には出られないことになっている。これが世界の常識と掛け離れているのだろうか。第2次世界大戦で侵した反省に立って,アメリカに押しつけられたとはいえ,平和国家として守り続けた憲法である。本当に世界の情勢に合わなくなっているとしたら,堂々と憲法改正を国民に問うのが正しい筋道ではないか。それを姑息な手段として解釈論ですり抜けようとしているようにしか映らない。

  国民の理解が十分ではない認識

安倍総理自身の言葉だが,国民に十分理解されていないことは認識されているようである。とにかく安保法案と云っても幾つもあり,その代表的なものが集団的自衛権の行使である。確かに判りにくい面はあるが,具体的に一つひとつ場面の説明があるが,個別的自衛権の範囲で十分対応可能な部分もある。つまり,我が国の存亡に拘わるような危機がある場面として,国外での自衛隊の活動の範囲を拡大しようとされているが,説明だけを聞くと一見尤もなように聞こえることもあるが,その説明通りの保証はどこにもない。一度,法案になると拡大解釈され独り歩きする危険性が一番怖いのである。

つまり,集団的自衛権を認めること自体,今までの日本の立ち位置を変えることになる。普通の国になることで,戦争に巻き込まれる危険性は高まる。平和憲法の下でこれまで日本が採ってきた態度は取れなくなるリスクが高まることは事実である。こうしたリスクを正しく説明することなく,如何にも今までとリスクは変わらないと説明すること自体,国民を欺いている。それを多くの国民は判っている。理解が不十分ではなく,欺いてでも強引に法案を通そうとしているやり方に,多くの国民は反対しているのである。

世界情勢の変化に伴い,これまでの平和憲法下で過ごしてきた日本のやり方は世界に通用しなくなったので,世界に通用するやり方ができる国に変革する,とはっきり宣言した方が判りやすい。しかし,そうすると反対を表明する国民が大多数である。つまり,平和憲法下の日本固有のやり方を指示する方が圧倒的に多い。それを世界を知らない・理解ができていない人間だと一蹴するのは,如何にも国民を侮辱しているのではなかろうか?もっともっと国会で議論を尽くし,なるほど日本の立ち位置を変えなければいけない時期に来ていると国民に知らしめることが先決ではないか?

私自身も,世界情勢の変化は理解できているつもりである。しかし,欧米諸国並みの普通の国になることが,今日本の採るべき道だとは思わない。北朝鮮・中国の脅威は増しているが,それを日本固有のやり方で対抗することは可能であり,それが世界に誇れる日本の姿であり,武力に対して武力で立ち向かうことは争いを拡大こそすれ,お互いの利益に反することになってしまう。中国にしても,日本の誇れる技術力や経済力は取り込み,近代国家になる時期がいずれ来るように思われる。今の中国の政策が長続きすることは決してないと感じている。理解不足と云われればそれまでだが,少なくともそうなる時期は早々やってくると信じている。

  学生達の無関心さはなぜ?

現在,京都の大学の聴講生として通っているが,文化系の学部がある学内であるが,安保法制のことは全く触れられていない。ビラ一つ配られる気配もない。もちろん,集会などアジっている学生も見当たらない。大学の事情には精通していないので,こうした行為が学内で禁止されているのかもしれない。

我々の学生時代は,全学連など過激な学生運動が活発で,工学系の大学でも,何らかのビラや活動を目にする機会があったが,ここまで変わってしまったのかと云う思いは強い。私自身,学生運動に関心があった訳ではないが,純真な学生の中には,日本の将来を憂い嘆き,学生運動に参加する者も居た。

今回の安保法案は,当に将来の日本の行方を決めるような法案であり,若者として看過できないものであるはずである。もちろん,過激な運動やデモを推奨している訳ではないが,学生として大きな関心を持ち,ときには反対の声を上げ,仲間と共に議論し合うのが,正常な姿ではないだろうか?

そんな嘆きに似た気持ちと共の,このような若者に育ててしまった一因は我々にもあるのかも知れないと感じている。父親から戦争の体験はいろいろ聞いたが,実際に戦争の悲惨さを体験したことが無い我々の世代である。学生時代の過激なデモなどは,今でも良い印象は少ない。高度成長期に,まっしぐらに経済成長の担い手として働き,子供の教育は母親任せにした世代である。こうした安定した生活が長く続くと所謂「平和ボケ」の状態に陥ってしまっているようにも感じる。そんな世代を父親や祖父に持った若者に,学生として安保法制に関心を示せと云うことの方がムリなのかも知れない。

安保法案が強制可決に向かいつつあることを憂いつつ・・・

 

[Reported by H.Nishimura 2015.08.03]


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