■転機 6 職場異動 その4 (No.435)
職場異動(その4)
1990年代になり円高が進み,80円/$になりつつあった頃である。セットユーザ(電気製品)の生産が海外にシフトし,海外での部品調達が進み出していた。既に,電子部品の会社として東南アジアを中心に生産工場を展開していたが,このままでは部品の生産もどんどん海外シフトして,日本の物づくりの現場が減り,日本の設計者は海外の工場の生産品の設計に時間を割かれ,新製品など新しい技術を検討する時間が減少しつつあり,日本の技術の空洞化が話題になってきていた。
そこで,海外の生産工場でも,設計変更など簡単な設計は現地人でできるよう,現地に設計センターを作る構想があり,その任務を担当する異動が下った。電子部品も専業化が進み,抵抗器,コンデンサ,コイルなど各々の技術に長けた技術者は居るが,設計センターとなるとそれらを総合した運営が必要で,各電子部品の専門技術者より,私のようなそれらの電子部品を扱った設計をやっている者の方が総合的な観点で見られると白矢が当たったようである。
設計の現地化の検討
当時,東南アジアに工場を展開して,10年以上が経過しており,シンガポール,マレーシア,インドネシアに生産工場が展開され,各々の工場で,幾つかの電子部品の生産が行われていた。日本での構想は,現地人でも優秀な中国系の多いシンガポールに設計センターを立て,そこで各国の生産品の設計を一手に任せては如何か,と云うものだった。その構想の具体的な企画をするもので,現地調査から始まった。
その当時の各生産工場は,全体を統括する日本人の社長もしくは専務が常駐し,各生産品である電子部品に2,3人の日本人スタッフが常駐し,工場長や技術部長の任務を任されていた。実態は役職通りの仕事よりも,何でもすべてやる総務的な仕事が多かったようである。設立10年もしているので,現地の技術者,品質担当者など日本人のスタッフを支援できる者が,少しは育ってきている状態だった。
日本から1週間程度の出張ベースで各生産工場の実態把握をするところから仕事が始まった。また,R&D設計センターの構想は,先輩事業場である製品を生産している部門(セットユーザの同列会社),ここでは既に,現地にR&Dセンターが作られており,その実態を学ぶところからスタートした。
現地の実態
シンガポール,マレーシア,インドネシアに生産会社が設立されており,それらの会社を順番に廻って,各工場の責任者に技術部門の実態をヒヤリングすることから始めた。
数人の日本人スタッフなので,技術者が出向している工場もあれば,製造部門のスタッフが出向している工場もあり,各工場の事情に合わせたスタッフが送り込まれていた。多くは技術者の日本人スタッフが居て,物づくりの現場を取り仕切っているケースで,現場の技術トラブルなどを現地人のスタッフを使いながらやりくりしているようだった。しかし,どの責任者も,日本で描いていたものと,現地の実情とのギャップに苦労の連続のようだった。
各工場の事情によって設計の現地化を始めている工場とそうでない工場に分かれていた。ただ,現地技術者がなかなか育たない課題を抱えていた。また,その背後に日本の事業部からの支援の度合いも様々で,出向者任せになってしまっているようだった。出向者は通常5年程度で交代し,一貫した教育,指導がなされないことも現地人技術者の不満になっているようだった。一方で,学歴社会が厳然とあり,大卒は職位の上昇も早く,且つ日本への研修など優遇されていた。しかし,長続きせず会社を止めることを前提として仕事をさせねばならないと云う苦悩があるようだった。
また,日本人の場合は,お互いに助け合って仕事をすることが通常一般であるが,現地人は言われたことしかしないのが徹底しているようだった。指示したことは,時間が掛かってもやり遂げるが,指示されないことまで手を出すことはしないようで,日本人同士では阿吽の呼吸で仕事をしている部分があるが,現地では一切通じないとのことだった。典型的な例は,何か問題が起こってユーザーに呼び出され,日本人スタッフが出掛けると,残った現場のスタッフは,日本では帰ってくるまで何をすべきか準備し,帰ってきてからの対処に備えることが通常だが,現地では,帰らずに待っているように指示して出掛けないと,どんな大きな問題でも,誰一人残らず帰ってしまっているのだそうである。
現地の先輩事業場のR&Dセンター
製品の現地設計を始めている先輩事業場の実態も見学させてもらった。会社設立も数年早く,主力製品を生産されているだけあって,すでにR&Dセンターを立ち上げておられた。1カ所は,現地での生産機種の設計をしており,100人規模の技術者を抱えているようになっていた。日本人スタッフは,立ち上げ当初は10数人程度が出向して,現地人の指導に当たっていたが,だんだん現地人技術者が育ち,日本人スタッフを減らしつつあるとのことで,完全に軌道に乗り始めているようだった。日本との設計を分業化できており,現地部品を取り込んだ設計にも着手していた。ただ,部品を正式承認するのは日本側に委ねていた。
世界4大拠点を分業化していると云う製品設計をしているR&Dセンターでは,東南アジアはもちろん,中近東や日本へ逆輸出もしているとのことで,数十人規模で運営されていた。現地での部品調達が90%程度にもなっており,日本から設計委託を受けて設計しているとのことで,プリント基板の試作なども4,5日でできる工程を持っていた。前者のR&Dセンターより数年遅れでスタートしているが,設計の標準化などが進んでいるせいか,設計の完成度は高いように伺えた。機構部品などの部品は現地での承認を始めており,電気部品は未だ日本側での承認のようだった。
もう一つの,R&Dセンターは立ち上げたばかりで,ここも日本人スタッフ10人ほどが,現地人の指導に当たっているようだった。新しく設立されたところだったので,設備などは,日本同様,最新の設備が設けられていた。特に,前者でもそうだったが,CADなど日本と繋がっていて,データベースが共通に利用できるようになっていた。だから,日本人のスタッフの感覚では,たまたま現地に居るが,設計するに当たっては日本に居るのと何ら変わらない環境で仕事ができているとのことだった。会社として,現地のR&Dセンターに掛ける意気込みの違いのようなものが感じられた。
ジョブ・ホッピング(他社への移籍)
現在でもそうだが,東南アジアなどでは,日本の技術を修得して,それを売り物に他社へ転職することが平然と行われている。日本の感覚では,ライバル他社へ易々と移ることは無いが,現地ではそれが横行し,現地人の育成が難しいことを物語っていた。酷いケースは,マニュアルなどノウハウを持ち逃げすることもあり,日本の会社間では,極端な技術者の引き抜きは禁止する申し合わせになっているようだった。
優秀な技術者を育てることの難しさが現場では大きな課題だった。仕事を習得してもらうためには,ある程度必要なノウハウなどを教え込まねばならない。逃げられるとの前提で,教えないのでは仕事が捗らない。一方,現地人は日本の企業で働いた実績,得た知識を武器に他社へ売り込みをし,給料を少しでも上げようとする。
ある人は言っていた。ジョブ・ホッピングをするのが当たり前の国で仕事をしている。だから,それをとやかく言うのではなく,この国の若者を教育し,この国に貢献している位の感覚で仕事をしなくてはならない,と。確かに,仕事のレベルアップし個人として成長することにおいては,貪欲な面もある。それが給料アップの手段だと割り切っても。日本人も,現地で仕事をする以上,安い労働力を搾り取って,利益を上げることだけでなく,その国に貢献することも大切なことである。現地に触れてみると,そんな感覚になるのだった。
R&Dセンター構想について
その後,2,3度出張を繰り返し,R&Dセンター構想の企画を練ってみた。現地出向の技術者からは,シンガポールにまとめて設計センターを作ることには反対された。現場のすぐ側に設計センターがあるならまだしも,離れたシンガーポールにあっても,実質的な活用は難しいのではないか,との意見である。つまり,シンガポールの設計センターを頼るのならば,むしろ情報量の多い日本の事業部の方を選択する可能性の方が高いと言う。
かと云って,東南アジアの会社毎にR&Dセンターを作ることは屋上屋を重ねるようでムダである。シンガポールでのR&Dセンターでさえその感はある。先輩事業場のR&Dセンターは,製品としてほぼ同じようなもので,標準化が進んでいる。CADなどのデータベースもオンラインで活用が可能なシステムが整っている。だから,日本でなく,現地でも設計が可能であり,現地技術者もそのデータベースを使って設計をしており,現地人での設計が可能となっている。
その点,電子部品は各々専門が分業され,一部標準化がされているとはいえ,まだまだ人の持っているノウハウに頼るアナログの部分が多い。それだけに,現地人の指導・育成も難しいものがある。電子部品の出向責任者は自分の手の内で設計してくれる部門があれば大歓迎なのだ。それを国を跨って依頼しなければならないようでは,日本に頼ることと変わりがない。それでは,R&Dセンターとしての役割を十分果たすとは言い難い。
いろいろ言い分を聞いていると進むものも進まないのが世の中であり,思い切って作ってしまうことも一つの方法ではあったが,余りにも犠牲が大きいように感じ,企画は断念した。ただ,技術支援としてすることは,いくらでもあり,出向者では手が廻らないことをサポートすることにした。先ずは,技術者を育成するにもドキュメント類が殆ど無く,出向者のできる範囲の指導であり,その格差が大きかった。そこで,仕事の基本のドキュメントを現地人育成用に作り直すことにした。新製品開発工程の各ステップにおける技術者の職務分掌を整理し,技術者の役割を全体を通して判るようにし,そのドキュメントを見れば,自分の立場で何を為すべきか理解できるようにした。同時に,電子部品の使い方のマニュアルを作成し,自分たちの部品がどのように使われるのかも理解できるようにした。
当初の設計センターの構想は挫折せざるを得なかったが,日本から海外の技術者を支援する課題は山積していたので,それらを一つひとつ現地に即したやり方で,且つ出向者が一番望んでいるものを提供するように心掛けた。
さいごに追加
昨今,ソフトウェア技術のオフショア開発など,東南アジアなどの技術者を活用するケースも増えてきている。特に,デジタル化され,標準化も進んでいるので,パソコン一つでやり取りが可能である。ところが,東南アジアの実態を知らないで,仕事を進めていると痛い目に合うケースがある。経験しないとなかなか理解し難いものであるが,日本で頭の中で想像することと現地の実態のギャップは大きく,はやり出張べーすでも十分だが,現地の実態を自分の眼で確かめることである。テレビ電話など臨場感溢れるシステムはあるが,それでも現地を生で見ることは大切なことである。
オフショア開発がスムーズに運ばない大きな要因は,溢れる情報,データなどの惑わされ,現地を生で見ないで仕事をしようとする日本人の上から目線のエゴではないどろうか?
日本での構想実現はできなかったが,その間の経験は大きな財産として残っている
相手の実情を知れば,解決策は講じられる
[Reported by H.Nishimura 2015.07.27]
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