■転機 2 海外出張 その1 (No.428)

  職場を異動する(その1−2)

次に転機となったのは,新しい事業のメンバーへ組み込まれたときである。同じ事業体で,新しい事業を始めることで技術の中心となる若手が必要とのことで選抜されたのである。選抜と云うより,電装品設計をやっていた職場の課長と,新しい事業を担当する課長が親しく,譲り渡そうと話し合いで決まったようである。

その職場は,企画段階で責任者である課長が事業の目論見書を作成中で,私ともう一人私より若い技術者と新人技術者,それに試作など技術を支援する者2人でスタートした。私にとっては,今までの技術とは違い,マイコンを搭載する制御ボードで,しかも納入先が米国のG社と云うものであった。技術の仕事には慣れたものの30歳前の若者にとっては,かなりチャレンジングな仕事であった。英語が堪能な訳でもなく,マイコンを使った技術に長けていた訳でもなく,思い切った職場異動であったことには違いない。ただ,そのときの異動した気持としては,何か新しいことに挑戦する機会が与えられたのだ,と一抹の不安はあったものの何とかものにしてやろうと云う気概に満ちていた。

初めての海外との仕事は,日本のこれまでのやり方とは違ったものがあった。先ず,先方から膨大なドキュメントが送られてきた。それは購入仕様書で,もちろん電気的な仕様など特性の仕様はもちろんのこと,使う部品一点一点まで,図面と仕様の明細が付けられてきた。当時,日本の殆どのユーザーとは,承認図,若しくは承認仕様書と呼ばれる,大きなA2図面1枚,或いは,A4の10数枚の仕様書などを取り交わす慣わしになっていたが,送られてきたドキュメントはA4(若干サイズは違ったが)100枚以上にもなるものだった。もちろん,事前にこちらから承認仕様書に相当するものを事前に送ったのであるが,すべてG社のフォーマットに置き換えられたものが送られてきたのである。

  海外出張(その1)

技術仕様の問題点の解決及びその説明に初めて米国出張することになった。昨今と違い,その当時の海外出張は希少で,それも初めての海外出張なのに,一人で出張することが命じられた。もちろん英会話が必須だが,英語が達者な訳ではなく,ただ駐在員が現地で待っているので,それを頼りに行くことになった。初めての渡米で不安はあったが,仲間からは羨望の眼差しで見られ,伊丹空港が国際線の発着もあった時代で,職場の仲間や家族が空港まで見送りに来るような有様だった。

当時,アメリカへはアラスカ経由で,アンカレッジで入国審査を受けた。アメリカ大陸に入ってからも,延々と続く赤い土地を下に見ながら,シカゴまでも3時間ほどあった。先ず,素直に感じたのは,大陸の広大さで,よくもまあこんな大国と戦争したものだと云うものだった。シカゴ空港に到着,米国でも有数の大空港で,そこからケンタッキーまで乗り継ぎの便になっていた。流石に初めての海外出張で大空港の乗り継ぎに不安は一杯あったが,心配性の反面,まあ何とかなるだろうと楽観視する面も同時に持っていたが,緊張は極地に達していた。駐在員の配慮で,初めての海外出張で大空港での乗り継ぎが難しいことを案じて,シカゴ空港まで出迎えてもらい,一安心したことの記憶がある。

食事は日本食が食べられなくても,何の苦痛も感じなかったので大丈夫だったが,目玉焼き一つ注文するにも焼き方(Sunny side up又はTurn over)を告げなければならない習慣には,少々面倒だった。量も,大中小を告げなければならないことが多く,特に,大などはとても普通の日本人には食べきれない量だった。(あれがアイスクリームの大と説明されたものは,小さなバケツにアイスクリームが入っているような量で驚いたものだった。)初めての米国出張だったが,駐在員が一緒に行動してくれたので,それほど困ることはなかった。

G社のケンタッキーの工場の大きさにも驚かされた。これまで日本で自動車メーカとの付き合いで,その工場の大きさは電機メーカとは比較にならない大きさを感じていたが,米国の工場の大きさはそれ以上だった。工場が扱っている製品が,白物家電だったこともあるが,駐車場は霞んでいるほどの広さ,工場内に貨物列車の線路が引き込まれていた。オフィスも数棟が直線で並び,それを串刺しするように中央の広い通路が走り,日本では道路に相当するようなもので,その両側にオフィスがあり,そのオフィスにも通路が走っている巨大なものだった。とにかく,スケールの大きさには流石アメリカと思わせるものだった。

もう一つアメリカに来て初めて感じたことがあった。それは仕事の捗り方が2倍のスピードで進むことだった。つまり,技術仕様の問題点のやりとりをして一日が過ぎ,日本で検討したい内容が出てくると,定時が来るとサッと終わり,翌朝までに日本での検討内容を報告するように言われた。日本と米国では丁度,昼夜が逆なので,アメリカで夜眠っている間に,日本で検討が終わり,朝起きると日本から回答が届き,それを持って次の日の打合せに臨めることだった。仕事が24時間フルタイムでできる感覚を不思議に感じたものだった。G社の面々は,日本の技術者の特質もよく知っており,効率よく仕事を進める術を心得ていた。

(続く)

海外出張は,これまでの視野を一気に広げてくれた!!

若いときの思い切った挑戦は大きな成長の足掛かりとなった!!

 

[Reported by H.Nishimura 2015.06.08]


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