■転機 1 職場異動 その1 (No.427)

企業の中で仕事をしていると,内外の様々な環境変化に依って,今までと違った仕事に就かされることが起こる。もちろん,ずっと長く同じ仕事に専念し続ける人も居るが,むしろ希なケースであり,殆どの人が,何らかの形で仕事が変化している。今回は,私の経験を基に,いろいろな変化について,そして転機となったことについて考えてみることにする。

  新人配置

企業に就職すると,最初に新人研修など,会社の概要や社会人としての務めなど社会人として最少限度知っておかなければいけないことなどを学ぶ。もちろん,会社の規模や教育制度など,企業固有のものがあって,期間,研修内容など一律同じではない。そうして,新人として職場に配置される。

多くの場合,個人的な希望に沿った職場では無いことが多い。大企業では,毎年,この技術部には何人程度の新人が入ってくるなど,これまでの慣例や補強したい事業などによって割り当てられる。職場の希望はあっても,必ずしもそれに合致した新人が割り当てられるとは限らない。むしろ,人数的な配分が中心で,個人の適性などはそれほど考慮されているとは限らない。

技術者ならば,機械系,電気系,化学系など大まかな分類は考慮されるが,学生時代に学んだ専門は,それほど重視されないと見た方が良い。むしろ,ものの見方や考え方,研究のやり方,報告書のまとめ方など,基本的な素養をしっかり身に付けていることの方が大切で,職場で新たに担当させられることが本人の専門家としてのスタートと思った方が良い。

個人的なことを十分配慮された職場配置とは云えないので,中には全く適性に合わない人も居るが,先ずは与えられた仕事をやってみることから始まる。先輩のやっている仕事を見ながらの朧気なスタートである。最初は言われたことや指示されたことをやるだけで精一杯だが,徐々に仕事の内容の大筋が判ってくる。仕事に慣れるまでは気苦労も多いが,そんなことを言っている余裕も無いのが実態である。

そうして次第に仕事に慣れて,やり方の要領も判ってくる。早い遅いは個人差もあるが,誰もが一定レベルには到達するようになる。これが社会人としての始まりである。

  職場を異動する(その1)

仕事を変わることは,個人の都合もあるが,殆どが会社の都合に依るものである。経理などお金を扱う仕事の場合,同じ仕事をずっと続けることによる不都合などを回避するため一定期間で交代することがあるが,技術者の場合は一定期間で変わると云うケースは少ない。しかし,技術の進歩は日進月歩しているので,同じ仕事を同じやり方で続けると云うケースは少ない。事業環境の変化などで,職場を変わることはよくあることである。

私の経験では,入社して1年間ほど高周波回路技術開発を担当させられていたが,ある日突然,違った仕事に就くように命じられた。自分では何故かよく判らなかったが,後からよくよく考えてみると,新しい事業展開の中に技術部門ができ,そこへ技術者が必要となり,私に白矢が当てられたようだった。元々居た技術部はしっかりした組織で,同期で3人配属だったが,1人は機械系で別の課だったが,もう一人とは同じ課で係は違ったが隣り合わせの殆ど似通った仕事をしていた。

私がなぜ選ばれたのかはよく判らなかったが,新しい職場は回路技術者を必要としていた。これまでやっていた高周波回路技術とは全く異なり,同じトランジスタ回路でもトランジスタ2石の低周波のアナログ回路で,当時,ゲルマニュームトランジスタで構成されていた回路をシリコントランジスタに置き換えて,新たに回路構成をやり直すものだった。

私の時代は,電子工学科専攻で,ラジオやテレビが真空管で構成されていたものから,トランジスタに置き換わるときで,真空管の原理とトランジスタの原理を比較しながら学んだものだった。トランジスタもゲルマニュームからより安定したシリコントランジスタが主流になりつつあるときで,今のデジタル時代の先駆けである。ソフトウェアは授業としては,フォートランなど大型コンピュータを使ったものの基本中の基本を教わったものである。

学生時代には,回路技術を専門にやった訳ではなく,物性に近い材料技術を卒論ではやったが,社会に出ると,電子工学を卒業していることから,回路技術ができると見なされ,それに応じた仕事が任されるようになったのである。学生時代の卒論などは専門とはほど遠く,研究や実験のやり方の基本を学んだ程度で,以降の仕事で卒論に関した材料技術のことが役立ったことはなかった。しかし,回路技術やトランジスタの特性など,基本的な電子工学が仕事のベースにあった。

不思議なもので,職場異動した仕事が私の専門の仕事となったのである。それ以降,電機メーカでありながら,電気製品の設計を担当することなく,自動車の電装品との付き合いが始まったのである。当時,自動車は機械系が主体で構成されており,一部に電気部品が使われている程度で,その僅かの電気部品が使われているインパネ(計器類の表示器)の一部分の設計が手始めだった。

自動車の電子化はどんどん進みだし,カーエアコン,100Km/h警報機など,電装品の出番の機会は増えてきた。インパネ関連は,相手側との信頼関係も厚く,電子化の取り組みに積極的で定期的な会合を持つ関係になっていたが,新たなユーザーの壁は厚く,最初は,品質などのギャップも大きく,採用されるまでに時間を要した。自動車メーカの厳しい指導の元で,一旦納入が認められると,2年間はモデルチェンジもなく,納入が続けられ,安定量産が可能だった。

周囲に電装品に詳しい人も居なく,自動車メーカの設計者,或いは検査員(自動車の品質は検査部門が担当)に指導され,育ったようなものだった。電機メーカの品質は自動車の品質に比べると甘く,電機メーカの品質の常識は通用しなかった。工程管理表などきめ細かい指導で,それさえあれば物づくりのノウハウが総て判ってしまうようなもので管理するよう徹底に指導されたものだった。こうして,私は電装品設計の技術者として育成されていくことになった。それも,配属1年後の職場異動によって。

その後の私の電装品技術者としての成長は,トランジスタ回路からIC化設計になり,その当時ではトランジスタを数百個並べた集積回路で,専門のICメーカと共同作業で,カスタムICを使った制御回路をカーエアコン用に設計して搭載された。当時の技術部門は,新しい技術への挑戦意欲も高く,未だ出始めたばかりのマイコンを検討する機会に恵まれた。今ではご存じの方は希有になったが当時,TK-80と云うマイコンのボードが売り出され,8個のLEDが並んだ裸のプリント基板ボードを購入し,技術部門でその動きを技術者仲間で検討したものだった。

多分,最初に配属された高周波回路技術の部門で仕事を続けていたら,マイコンなどに触れる機会は随分時間が経ってからになっていたが,制御回路を創作する技術部門だったことで,早くマイコンに触れる機会が訪れ,その後の回路技術に活かされることになったのである。今ではソフトウェア技術が設計技術の中心になっているが,当時はソフトウェア技術と云えば,大型コンピュータが扱う世界で,ハードウェアの設計技術者がソフトウェアに関心を持ち,切磋琢磨しようとしていたのは,時代を先取りしようとする現れでもあったように記憶している。

(続く)

職場異動は,一つの大きな転機であり,前向きに捉まえよう!

 

[Reported by H.Nishimura 2015.06.01]


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