■マニュアルの重要性 3  (No.399)

マニュアルの必要性を感じたことがある話題を続けよう 2

  職務分掌・マニュアルが無い(海外技術部門での経験)

次は,ユーザーとして外国企業との対応ではなく,自社の海外部門での話題である。グローバル化によって,海外へ工場を展開することは1970年代から盛んに行われていた。低賃金の労働者を使って,海外工場で安い労務費で製品化し,その国や近隣諸国を市場としており,場合によっては日本へ持ち帰っている製品もあった。

1990年代に入り,丁度円高が加速して,80円/$を切る円高になった時代のことである。シンガポール,マレーシア,インドネシアなど東南アジア諸国では,当時の各国の賃金は,シンガポール,マレーシアは日本の半分以下,インドネシアに到っては,1/5以下の低賃金で(当時の中国の賃金は1/10程度だった),インサートマシン(部品をプリント基板へ自動挿入する機械)よりも,女工の手で挿入する方が安く,設備投資もせずに済む時代だった。確かに,現場で若い女性が10数人並んで,決められた部品,1,2点を確実にプリント基板へ挿入する流れ作業の工程のスピードは目を見張るほどのスピードで,これではインサートマシンも叶わないと感じた次第だった。40数年昔,1970年初めの頃の日本のラインコンベアに女性がズラッと並んでいた懐かしい姿である。

扱う製品によっても違うが,電子部品では主に日本で十分生産された実績のある部品が製造され,その技術部門として,日本から2,3人の技術者が出向しており,現地人の技術者を数名から10数名抱え,工場技術などメンテナンスを中心に,工場としての自立をするようになっていた。さらに,それらの工場展開が進むにつれ,現地で技術者を養成して設計を現地化する動きが進みだし,1990年代に入り,設計の現地化のプロジェクトに携わったことがある。国内の空洞化が問題になり始めた時代である。実際には,設計の現地化と云っても,日本の技術者が出向して,現地人の技術者が簡単な改良をする程度だった。日本から部品を輸入していては,安い労働賃金とはいえ,利幅が少なく,現地の部品を採用すること(日系企業が多かったが)が必要になりつつあった。中には,研究開発部門を設け,R&Dセンターと名を付けて,現地人の技術者に簡単な改善設計や,部品を現地化して安い部品に置き換える設計などを始めている部門も出始めていた。

設計の現地化を如何にして為すべきか,先輩工場のこれまでの経緯や実際に行われている設計の実態,抱えている問題点などヒヤリングしたり,現地の技術者の生の声をヒヤリングしたり,調査をしてみた。日本人の出向者の抱えている問題点と現地技術者の抱えている問題点は,当然のことながら大きなギャップがあった。

先ず,日本人出向者の抱えている問題点は,一人や或いは,多くても2,3人の出向者では,現地人の技術者を十分に扱えるようにはなっていなかった。最後の尻ぬぐいと云うか,いざというときの詰めは日本人がやらなくてはならないのが殆どだった。それは現地人の能力も不十分だったが,それ以上に言われたこと,指示されたことしかできない現地人が殆どであった。例えば,クレームなどがあって納入先で対応して工場に戻ってみると,みんな帰ってしまっている。日本ならば,その後の処理のために工場に残って,帰ってくる上司の指示を待ち受けているのが当然であるが,そんなことはお構いなしだった。

言われたことや指示されたことは無難にこなすが,それ以上のことは自分の仕事だとは感じていない。また,ある日突然来なくなってしまうこともよくあったようである。海外では人の入れ替わりが激しい。ジョブホッピングと称して,企業を渡り歩くことによって給料を上げることが行われている。一生懸命育てても,突然止めてしまって,また一からの出直し,と云うこともしばしばだった。なかなか組織運営としてスムーズに行かないようだった。確かに,リーダとしてのプロが出向者に来ている訳ではなく,たまたま仕事の関係で出向になったと云う技術者が殆どで,組織リーダとしての資質がまだまだの人も居たことは事実である。

一方,現地技術者からは,日本人出向者は殆どが,3〜5年で入れ替わり,出向者が変わる毎に,やり方も変わり,問題が残ったままで帰って行く出向者も多い。要は数年我慢していたら,日本へ戻れる環境で,現地人はそういう訳には行かない。また,仕事の進め方もマニュアルなどが一切無く,部分的な仕事の指示だけが出されるので,断片的な仕事しかできない。要は,見よう見まねでしか学ぶことが出来ない状態である。

確かに,日本ではいろいろな規程・基準・要領などがあって,全体の構成が整っていて,ある程度経験を積むと,全体像が把握でき,仕事の幅も次第に拡がって行く。丁度,見習うべき先輩も居る環境下である。ところが,現地には,殆ど,規程・基準・要領などと云ったものが不足している。現地設計しようにも,新製品の開発のやり方の基準が無い。もちろん,いきなり新製品開発をやるわけでは無いが,少なくとも改良設計するにもその手順が判っていないとできない。出向者は日本で身体に染みついているので,何とも感じないのだが,現地人の技術者にとっては,目先が真っ暗な状態で,どのように進んで良いのかも判らない状態におかれているのだった。

そこで,プロジェクトとして役割を担っていたので,新製品開発管理規程と,各工程の内容,及び職務分掌を,現地人技術者に理解できるようなものを作った。各々の技術者が各工程,即ち自分に与えられた工程が,全体のどの部分にあって,それが何の目的で,何を為すべきかが,理解できるものだった。言われたことしかできないのは,能力が無いとか,責任感が弱いとか云ったものではなく,仕事内容を明確にしたマニュアルに相当するものが無い状態で,出向者があくせくしているだけの状態から解放することができた。現地人の自意識も自然と変わるようになってきた。

ただ,手放しで喜べる状態ではなく,酷い場合は重要な仕事のマニュアルなどを持って,前の職場ではこんな仕事をしていたと違う企業へ売り込むような不届きな人間も居る。だから,こうしたマニュアルがあることも善し悪しで,マニュアルの管理は自ずと慎重に扱って貰っていた。しかし,ジョブホッピングに一々腹を立てていてもしょうがない。日本人として違う企業に移ったとしても,その国を豊かにする方向に向かっているのだと諦めた方が良い。いずれ,日本を頼りにせずとも,一人前の独り立ちした国として栄えていくような豊かな国になれば,自然と正しい姿になっていくだろうと期待したいと,その当時は思っていた。以降,20年近くになるが,どれほど自律できているかは,この目で見ていないので不確かである。

長々と当時を思い出しながら書き綴ったが,仕事を進めて行く中で,規程・基準・要領は最低限必要不可欠なものである。それらを無くして仕事を進めようとすることは,無免許運転同様リスクがあるだけでなく,スムーズに目的に必達することができない。特に,多くの人を導いて仕事を進める場合,マニュアル無しでは各人の能力に制限が掛かり,幅の狭い仕事に終始してしまう。自律した仕事をさせることができない。日本の社会だけで仕事をしていると,なかなか判らないことかもしれないが,阿吽の呼吸が通じない世界では,マニュアルが欠かせないものなのである。

海外を相手に仕事をする場合,スタンダードを学ぼう

 

[Reported by H.Nishimura 2014.11.17]


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