■ノーベル物理学賞受賞 (No.394)
青色LEDの開発で,赤崎勇氏,天野浩氏,中村修二氏の3人が,2014年度ノーベル物理学賞を受賞された。これで日本人のノーベル賞受賞は22人,内物理学賞は10人となった。マスコミの報道を聞きながら感想を述べる。
青色LEDの開発
赤,緑色のLEDは古くからあったが,青色だけが無く,20世紀中には無理だと言われ,多くの技術者が諦め,止めていった中で,根気よく開発を続けた人が,最後に栄冠を勝ち得た。ご存じのように,青色LEDは波長が短く,ブルーレイレコーダに代表されるように,高記憶容量のDVDの実現に大いに役立っている。また,赤・緑・青の光の3原色が揃ったことにより,あらゆる色が実現可能となり,その中でも,白熱灯,蛍光灯に代わる照明にLEDが使われるようになってきている。
そもそもLEDは赤色しかなかった。我々の1970年代ではLEDと云えば赤色で,直流の低電圧(2.1V)で駆動でき,簡単な表示用として用いられていた。普通のダイオードは0.7V程度の順電圧で,逆耐圧は高く,主には整流用として用いられていたが,LEDは逆耐圧が低く,整流用には用いられず,簡易表示用でしかなく,それが今日のように発展するとは夢にも考えなかった。やがて,赤色だけでなく,緑色や黄色,褐色と云ったものが揃い,表示の範囲が拡がったが青色の実現は夢のまた夢で,果たして実現できるかどうかも疑問だった。
それが,今回発表のあったように,地道な研究成果の結果,青色のLEDが世の中の照明をも変えてしまう,偉大なものになってしまったのである。青色LEDは赤色よりも若干駆動電圧が高く,それでも直流電圧3.5Vで光る。乾電池2個で光るのだから,省エネに貢献することは十分理解できるはずである。照明用として十分な光量を出すものにまで改良されたものが世の中に出回っている。簡単な表示用やバックライトには実用されるだろうと思っていたが,照明にまで使われるとは思っていなかったので,技術の進展には驚かざるを得ない。
青色LEDが話題になり出したのは,日亜化学の中村氏の量産化成功に纏わる特許論争で,マスコミの話題をさらい,青色LEDと云えば中村氏の功績のように思っていたのは私だけではないだろう。
基礎を作った2人
今回,赤崎教授,天野教授の名前が挙がったが,それまで両氏の名前すら知らなかった。発表の会見やマスコミの報道で,初めて青色LEDの開発を辛抱強く続け,世界で初めて青色LEDの発明に貢献されたことを知った次第である。赤崎教授の言葉ではあるが,20世紀には誰もが実現不可能と言われていた青色LEDだったが,必ず実現してみせると挑戦し続けた。多くの研究者が断念していく中,コツコツと研究を重ねられた“執念”が実を結んだものと感じている。
天野教授は赤崎教授の門下生として,実際実験を繰り返し,たまたまの実験結果(焼成炉の温度が上がらなかったこと)を見事に純粋の結晶の実現に結びつけたとされている。天野教授は,赤崎教授の示唆がなければ,到底このような名誉に預かることは無かったと謙遜されているが,二人三脚の努力の賜物なのだろう。
天野氏(大学院生時代)がサファイア基板に低温バッファー層を形成することで,窒化ガリウム(GaN)の高結晶化に成功したことと,LEDはPN接合(半導体にはP型とN型があり,これらを接合させること)によって成り立っているが,P型の窒化ガリウム結晶を作ることが難しく,亜鉛をドーピング(結晶の物性を変化させるために少量の不純物を添加すること)させてみたが,P型にはならず,マグネシウムのドーピングによってP型伝導になっていることを発見,この2つが大きなブレークスルーだったと言われている。
その発見(1989年)の少し前(1987年)から,青色LEDの事業化に向けた取り組みが始まり,新技術事業団の委託開発に選定され,豊田合成が開発実施企業になった。当時,豊田合成は自動車のゴムや合成樹脂製品が主流で半導体の技術者は居なかったが,当時の社長が脱ゴム,脱樹脂で何かやりたいと熱心で,半導体の難しさを知らなかったからできたことだと。また赤崎教授も開発初期の段階で,研究開発に没頭したく,事業化は未だ早すぎると断られているが,社長の意欲と熱心さにくどき落とされたと振り返られている。現在,その継続で豊田合成でも日亜化学と違った工法で青色LEDを商品化している。
商品化に導いた中村教授
中村教授の開発エピソードはこれまで何度かマスコミでも報道され,多くの人に知られている。今回の受賞に際しても,「怒り」が研究の原動力になったと語り,特許論争などを経験し日本を飛び出し,アメリカで教授として迎えられ,研究開発に携わっている今日を振り返っておられた。
日本の技術者としては異質な存在である。日亜化学とは特許の貢献に対する評価の低さに論争を繰り返し,最後には飛び出している。他人とは違った発想や努力が偉大な発明に繋がったとは思われるが,もともと開発に当たっては,創業者が大きな支援をしてくれたからであり,その後の具体的な処遇などの経過はよく知らないが,会社のために貢献する道もあったのではないかと感じている。ただ,逆に言えば普通の技術者と同じようなことをする人だったら,このような発明が生まれていなかったのかも知れない。
赤崎教授とはライバル関係にあったようだが,中村教授が青色LEDの開発を始めるよりも10年前から赤崎教授達が始めており,開発は先輩であったが,商品化は中村教授の方が先で,これが青色LEDの話題を大きくマスコミが取り上げ,特許論争と共に世間の話題なっていたのである。
ノーベル物理学賞はこれまでどちらかと云えば,基礎や理論物理が主で,今回のように商品化され世の中に貢献しているものが賞を取ったことはなかったので,中村教授も物理学賞で受賞したことは驚きで,化学賞などの可能性を予測されていたようである。中村教授は,地道な努力の塊のような赤崎,天野両教授と比較すると対照的で,エネルギッシュな意欲満々の技術者のように見えるのは,発言内容や風貌からくるものかも知れない。マスコミも「怒り」を印象づけるようなシーンを報道し,そのような人物像に仕上げているようにも見える。
会見語録より
「はやり研究をやるのではなく,やりたいものをやりなさい」(赤崎教授)
「信念を持っていれば必ずできる」(天野教授)
「一つに集中し,人の役に立てることを続ける。日本には才能のある人がいっぱい居る。それを活かして欲しい」(天野教授)
自分の信じた道を貫き通すことこれが重要!!
[Reported by H.Nishimura 2014.10.13]
Copyright (C)2014 Hitoshi Nishimura