■福島原発事故 政府事故調査・検証委員会 中間報告を読んで  (No.254)

昨年暮れ(12/26)に,原発事故に対する原因究明として,事故調査・検証委員会が700ページに及ぶ中間報告書を発表したが,その中身について感じたことを述べてみたい。膨大な資料なので,ざっと目を通して読んだだけなので,私自身の思いが入り込んでいる部分もある。また,国民に広く意見を募集していたので,下記内容のような意見を投稿しておいた。

中間報告書の詳細なものは,http://icanps.go.jp/post-1.html にあるので参考に。

  ★原発事故の全貌を俯瞰できる人が居なかった

中間報告書でも最後の小括の中で,原子力災害を「B全体像を見る視点の欠如」として述べられているが(p504),“事故発生時に本来役割を果たすべき,原子力の災害対応に当たる関係機関や関係者,原子力発電所の運営・管理に当たる人々の間で,全体を俯瞰する視点が希薄であったことは否めない”との表現に止まっているが,人災事故と云われる所以は,当に全体を俯瞰できた当事者が誰も居なかったことで,これが災害を大きくしたのではないかと感じる。

特に,本来最も役割を果たすべきだった原子力安全・保安院が,原子力発電を推進する経済産業省の中にあったとか,東京電力との馴れ合いだったとはいえ,それらは事実としての事象の一つで,事故の全貌を俯瞰して把握できる立場として何の役割も果たしていないことが最大の問題点であると感じている。今回のような大事故では部分的な最適な対応では,事故拡大防止に役立たなかったことを物語っており,難しい中であるからこそ,全貌を俯瞰して,適切な判断を素早く下すことが最重要であったにも拘わらず,原子力安全・保安院及び東京電力で誰一人できていなかったのではないか。立場の高い人(特に,総理大臣)への対応に振り回されているようなお粗末な失態でしかない。

事故発生の緊急時は,誰しも目の前のことしか見えなくなる。大事故だとの認識はあっても,一つの側面しか見られなく,その対応で必死である。全体を俯瞰することは,言葉で言うほど容易なことではない。平常時でも,原発推進派と反対派が居るように,物事を見るときどちらか一方から見る,即ち平面的に裏か,表から見るのが簡単で,自然とそうなりがちである。俯瞰するというと,全体に視野を拡大して見るようにも取れるが,それでは済まされない。実際に物事を平面的でなく立体的にあるがままに見るには,いろいろな情報を集めねばできず,そこまで出来る人は少ない。更に時間軸が加わった(将来どのように変化するかなど)場合にまで俯瞰できる人は居ない。しかし,こうした大事故に対して居ないでは済まされない。組織的に,人質も含めて,全体を俯瞰(4次元的に)できる体制構築しておくべきである。

  ★事故発生に於ける重要な事項の位置付けが不明確ではなかったか

中間報告書を読んでもよく判らないのだが,原子力発電の事故に於ける最重要事項は何なのか,関係者が良く判っていたのかと云う疑問である。確かに,頭では原子炉の冷却部分が重要との理解はあっても,具体的に何をどのようにすべきか,それはどのような理由からと云ったことまで,関係者の中できっちり理解されていたとは思えない行動であったように見受けられる。

同じことが,SPEEDIに対する対応でも伺える。原子力災害で人体への影響を最小にくい止めることは,これも最重要なことである。そのために,SPEEDIなど投資をしてデータが活かせる準備はされていたものの,初期の段階で検討もされていない事実がある。これなど,関係者の中で,本当に最重要事項を理解し,判断しようとした人が居てもおかしくないはずである。SPEEDIの仕事に携わっていた人はどんな気持だったのだろうか?

要は本当に必要な専門家が揃って判断して形跡が全くなく,素人集団(但し,立場だけは立派な人たち)が俄か仕立ての専門家を集めて判断しているとしか見えない。要は,各々は立派な専門家であっても,事故のような普段では考えていない事態での的確な判断は困難であって,やはりそうした事態に備えた専門家が(ここでは,原子力安全・保安院),全体を俯瞰した的確な情報を収集し判断をすべきである。

対策として,原子力安全・保安院を経済産業省から環境省への移管がなされたようだが,そんなことは形式上でやはり原子力安全・保安院としての資質があるか否かの人質(いざと云うときの冷静な判断力を備えていること)ではないかと思う。報告書の中では,優秀な人材の確保,専門能力の向上などと謳われているが,人命を預かる自動車業界・航空機業界の安全に携わっている人などの知識・知恵を集結することが必要ではないかと感じている。

また,原子力発電は安全であると云った「安全神話」があり,そうした中で原子力発電と云う専門分化,分業が進み,全体を俯瞰して判断が困難な側面はあったにせよ,事故対応の重要事項を分析し,具体的な対応策を検討しておくと云った最低限でもできること(地道なことだが重要)さえも十分に実施できていなかったのではないかと疑われる。

  ★「震災対応マニュアル」などマニュアル依存では限界があったのでは

「震災対応マニュアル」がどんなものだったのか全く判らないので断言はできないが,そもそも非常時にマニュアルで対応できると考えること自体間違っているのではないか。「震災対応マニュアル」を作ること自体は反対ではないが,それに頼っただけでは,今回の事故拡大は不可避だったと思われる。報告書の中で,「想定外」と云う言葉を,何かを考えるときある枠を作ってその範囲内で検討し,その枠外は検討の俎上にも上がらないともあるが,全くその通りである。

要するに,マニュアルが有効に働くのは正常時,つまり普段行われることに対しては非常に効率的,且つ一定レベルの品質確保が可能である。ところが,非常時はマニュアルに無いことが起こるのである。「震災対応マニュアル」と云う名前からして,非常時の対応ではあると思うが,先に述べた想定の枠をどこまで拡げるかで,結果的にすべてのことを想定することは不可能である。つまりマニュアルで検討すること自体限界がある。

また,マニュアル自体の記述はHow-toが中心,つまり発生事象に対する取るべき行動が記述されているのが大半である。その行動すべきとする背景や考え方まで記述されたものは少ない。つまり,発生事象が少し違えば,正しい対処方法が取られない可能性がある。まして,すべてを想定できない事象であれば,対処方法が判らないものも多くある。だから,マニュアル作りが不要だというのではなく,マニュアルには対処方法などに対する背景や基本的な考え方を併記しておいて,それを関係者の教育などに利用するのが良いのではないか。そうすることで,事故の想定外の事象でも,事故拡大防止にはなるのではないか。もちろん,重大事故になる部分に限ってでも十分である。

 

[Reported by H.Nishimura 2012.01.23]


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