■3.11から半年が過ぎて(9.11に思う) 3 (No.238)
丁度,このタイミングで話題沸騰のサンデル教授(ハーバード大)の特集があり,これから話題を拾う。
究極の選択:
NHKの震災特集の番組で,マイケル・サンデル教授(ハーバード大)の究極の選択として,教授特有の極端な例を挙げながら,学生に議論をさせ,その中で「正義とは?」,我々自身がその問題をどのように真剣に考えるべきかなど,政治哲学的な内容に入り込みながら番組を進行させている。今回は,ボストン,上海,東京の学生各8人,及び有識者3人を交えて,震災に関する議論があった。
誰が責任を負うべきか?
番組の中で,原発事故の責任を誰が負うべきかと云う問い掛けが,学生にに投げ掛けられた。以下の,4つの選択肢の中で,どれが一番適切と思うか?
- 税金で賄う(現世代)
- 国債・借金などで賄う(次の世代も含めて)
- 東京電力及び株主
- 電気利用者
天災と人災が交錯する中で,回答がなかなか難しい一面をみせたが,国別の回答は以下の通りで,全体としては東京電力及び株主が負担すべきと云う意見が多かった。
ボストン 上海 東京 税金(現世代) 1 2 4 国債・借金(次世代も含む) 1 1 0 東京電力及び株主 4 4 3 電気利用者 2 0 0
多分,東京電力及び株主が多かったのは,原発事故を人災を意識しての回答だと思われる。一方,天災としての負担は各国で意見が分かれている。東京が関東の学生だったので,利用者である自分たちだけが負担することはない,と感じたのかもしれないが,税金との答えだった。これは復興税,震災税などの議論があることからも判るところである。ボストンは,アメリカの多様性からくるものか,意見が分かれたのは興味深い。
家族を失ったときの一人当たりの補償額は?
人の命に対する補償額は,亡くなった人の経済的価値で差を付けるべきか,それとも,一人ひとりの命は同じであるべきで人に価値を付けるべきではないとすべきか,との質問が投げかけられた。
具体的な事例として,9.11のテロに対するアメリカ政府の補償は,当該者の経済的価値に比例して支払ったそうであるが,これにはフェアではないと反対する意見も多くあったとのことである(サンデル教授が補足説明)。
学生の多くは,一人ひとりの命は同じであるべきで人に価値を付けるべきではない(平等の補償)とすべき,と云う意見が大半を占めた。そこで,サンデル教授は,失ったものが命ではなく,住宅などだったらどうか?と問いかけた。結果は,次の通りだった。
ボストン 上海 東京 価値相当の補償 2 1 1 一律同額の補償 5 7 7
この結果に対する解説は無かったが,どうも学生の意見に納得がし難い。例えば,この問い掛けが,命よりも先に,住宅など物的損失に対して問い掛けていたら,結果は損害物に対する補償額として逆転したのではないだろうか?人の命に差を付けることはできない,との思いは誰しも頷けて納得ができる部分である。それを先にイメージさせた後での,物的補償の問い掛けのために,こうした結果が生まれたように見た。
また別な面で見れば,いざ補償となったとき,働き盛りのお父さんたちと老人で,人の命として同額で果たして納得ができるだろうか?働き盛りのお父さんには,生計を立てている家族(お母さんや子供達)がバックに付いている,それに対して,独居老人であれば,自分の身一つである。これから見れば,命に差を付けると云うより,以降の生活に対する補償で,差があって当然だと思う。学生達なので,家族など生活感も未だ不十分で,致し方ないのかも知れない,と云うのが私の素直な感想である。
原子力エネルギーの将来についてどう考えるか?
震災以降,原子力発電を減らす動きが活発化してきている。ドイツでは,脱原発の動きになっている。但し,ドイツはフランスの原子力発電の電力を購入しており,自国では脱原発だが,原発で作られた電力を全く使わないと云うわけではない。
原発の必要性についての問い掛けに対する答えが次の表だが,ボストンだけが全員賛成したのも不思議な気がした。アメリカではスリーマイル島での事故はあったが,現在の電力事情から,原発抜きの生活はあり得ないのだろう。中国も,経済途上国で今後の活動に,原発のエネルギー無しでは成り立たない思いが強いのだろう。唯一,東京の学生だけが,半々だった。これも,今回の震災事故が無かったら,ボストンや上海の学生と肩を並べていたものと思う。ただ,電力制限など,経済,生活両面からの課題から,当面は原子力に頼らざるを得ないとの判断ではないかと思う。
ボストン 上海 東京 原子力発電に反対 0 2 4 原子力の安全性を高め継続使用 8 6 4
しかし,ここでサンデル教授が,原発賛成者に自宅が原発の近くでも住むか,と問われると,一気にしぼんでくる。原発のリスクから,自分の身は守りたい意識が働く,今回の福島の悲惨さを見れば当然と云えば当然である。
ボストン 上海 東京 原子力発電の近くに住むこと可 5 − 1
リスクをお金で肩代わりに賛成か?
それでは貧しい町が,交付金などを目当てにリスクを背負うことに賛成した場合はどう考えるか?とサンデル教授は突っ込む(原子力の廃棄物処理も同様)。
世の中,格差が全く無い訳ではないのが常なので,こうしたリスクを取るか取らないかはビジネスと考えるべきではないか,と云う意見もあった。議論の雰囲気は,何となく格差があること自体が問題であって,自由意志による選択では無いとの見方もあった。
サンデル教授が他でも持ち出したことのある,リスクのアウトソーシングの事例紹介。アメリカの南北戦争のとき,金持ちが貧乏人を身代わりの傭兵として雇うことを法律として認められていた。これを,原子力の事例と重ねて,どのように見るかとの投げかけもされた。
東京の学生が,リスクのアウトソースとして代理は認めても良いが,お金は払ったとしてもそれで責任が無くなった訳ではなく,道義的責任は別途残るのではないか,と指摘し,サンデル教授は,こうした道義的責任について我々は真剣に考えることが重要である,との見解を示して締め括られた。
議論の流れを追ったものだが,考えさせられる点は多い
物事を事象面で見るだけでなく,深く思考して考えることは技術者にとっても必要不可欠なことである
[Reported by H.Nishimura 2011.09.26]
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