■卒業生の総会から 2 (No.071)

(前回からの続き)

今回の総会には同級生が20数人集まった。還暦を過ぎ,余生をのんびり暮らしている人も居れば,まだ現役で頑張っている人もいる。特に,自営業の人は殆ど働いている。女性も優雅にのんびり暮らしている人が多い。というより,こうした会合にでも出かけようと云う人は多分にそうしたところがあるのだろう。講演後,同級生全員で校舎の前で記念写真を撮った。

200年の歴史がある母校についてもう少し触れておくと,私たちの時代は実に自由な文武両道の校風で,当時は制服もなく服装は自由で,学校の出入りも自由,高校にしては珍しい自由な校風だった。(今は制服になっているが,当時は県下でも唯一制服のない高等学校だった)さらに,授業も担当の先生がおられない日はブランクと云って,自分たちの自主授業になっていた。また,彦根城の城内にあることから,生徒手帳を見せれば城内を自由に散策することも可能な時代だった。当時から県内有数の進学校であり,我々の時代に立てられた校舎が,40年以上も経った今もそのままで老朽化している。城内の規制地区のため,自由に建て替えができなく,移転の話も出ていたが,ようやく立替の許可が下り,城内の同じ場所で新装されるようである。

我々の世代は,東京オリンピック(昭和39年)が開かれた年に,丁度高校3年生だった。舟木一夫の「高校三年生」(と云っても知らない人が多いかも知れないが)が流行った時が高校の2年生だった。所謂,「団塊の世代」(昭和22年生〜24年生)の一年前の世代である。

今の人は想像もできないかも知れないが,我々の学生時代は激動の時代だった。革マル派が東大の安田講堂を占拠し,学園紛争が最も激しかった時代である。我々が大学4年生の時で,その年の東大は卒業生が居なかったし,新入生も採れなかった年である。学園紛争は東京と京都が一番激しかったが,名古屋にある私の母校である工業単科大学でも紛争の余波はあり,一時職員室が占拠される事態に陥り,私たちの卒業式は開催できなかったのである。教授から部屋で卒業証書を頂いただけである。構内に入るのもバリケードされ,塀をよじ登ってしか入れなかった記憶がある。また,過激派が構内を占拠する怖れがあると研究室にヘルメットと角棒を持たされて泊まり込んだこともある。

高校を卒業してからは,そんな学生時代だったが,高校時代は極めて平凡な勉強に明け暮れた毎日だった。今回訪れた今でも懐かしいこの高校の学び舎で学び育った同窓生500人が全国各地に散らばって居る。特に,東京,横浜など関東地区に約120〜30人,京阪神地区に同じく約120〜30人,残りの半数250人は滋賀県内に居るようである。

1995年から5年毎に同窓会が開かれたが,これまで3回,いつもお盆の頃で約200人が全国から戻って集まる。もちろん,500人も居れば同級生でも名前も知らなかった人も居る。もちろん,30〜40年の歳月を経ているので,面影からなかなか思い出せない人もいる。高校時代から殆ど変わりの少ない人も居る。男性陣もそうだが,女性陣は特に,年齢はなかなかごまかせない。それぞれそれなりの熟女である。しかし,同じ仲間が集うとすごいエネルギーである。同窓会での集いは,懐かしい想い出に2,3時間はあっという間である。

こうした懐かしい仲間との交流をもっと深めようと,2001年からホームページを作っている。同窓生の情報交換の場となっており,いつもバーチャルな同窓会が掲示板を通して行われている。もちろん,60才を超えた世代,パソコンを難なくこなせる人は半数も居ない。子供に教わりながら,キーボードをたたく程度である人も多い。それでも,昔仲間の情報を得るために,書き込みまではしないが,いつも覗いていると云った人も居る。先般の同窓会など,そのときのスナップ写真だけで200枚以上で,それぞれの表情を見るだけでも楽しい。

また,同窓生の集いが各地である。東京でも毎年40〜50人程度が集まる。また,ゴルフコンペも関東と関西で続けられている。或いは,女性仲間数人で毎年旅行に出かけているグループもある。5年に一度の同窓会の準備を進める役員として昔の各クラスから2,3名が,年2,3回集う。春は彦根城,夏は京都の川床,冬は忘年会と懇親を深める場が設定され,いつも20余人が集って近況報告などで賑わいを見せる。還暦を迎え,時間の余裕が出てきたので,新しい企画を考えている人もいる。本当に,心底からの楽しい仲間である。

皆さんは同窓会の集いがありますか?

上下関係の無い,同い年の同窓生仲間と云うものは,良いものですよ。

[Reported by H.Nishimura 2008.06.16]


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