■日本の,これから 「学力」 2 (No.059)
前回のNHK特集の続きで,放送内容の順で述べる。
和田中の夜間スペシャル
今,話題になっている東京の和田中学校の状況が報道されていた。当の藤原校長もコメンテータで,その実体が良く理解できた。学校で補習事業をやることは良く聞くが,塾の先生が講師で,しかも有料でやっていることに対して賛否両論がある。
実態は単に塾代わりにやっているのではなく,地域本部(PTA)が主体となって,部活と塾の両立が可能なように工夫が為されているという。つまり,一般の塾に通うことにすると部活の時間帯と重なるために部活を止めなければならないが,今回のようにすると部活を終えて,地域本部の人が作った食事を食べて勉強をすることになって,両立できるというメリットがある。
また,なぜ塾の講師がしなければならないのか,先生はどう感じているのか,と云った質問があったが,藤原校長は,その前提条件として,先生,生徒,父兄に信頼関係が出来ていないとこうしたやり方は成り立たないと云う。つまり,教えることが上手な塾の講師がやることで,伸びる生徒はより伸びる。また,内容的にも思考力を高める授業をやっており,受験勉強のためだけではないと云う。ここらについては,内容まで把握できていないでの何とも云えない。校長はそのつもりでも,生徒や父兄の方は,よい学校に入って欲しい一念であるには違いない。
また,格差の拡がりのことを問題視する意見も多かったが,実際には逆だと藤原校長は云う。つまり,上の生徒が伸びると,下の生徒を教えようと云う気持ちができる。そうして結果的に下の生徒も伸びて,全体レベルが上がることになっているそうである。この試みの前に限られた教科で3年間実証済みだそうである。生徒は教師から学ぶだけでなく,生徒同士でも学び合うのだと云う。また,落ちこぼれになるような生徒は,土曜寺子屋と云って,別の試みがなされ,ここでは大学生がマンツーマンで教えているようである。さらには,収入格差にも配慮して,収入の少ない家庭の生徒には半額でスペシャルが受けられるようにするなど工夫もされている。
なかなか実態を知らずに,なぜ塾の先生が,と云う前によく知った上で是非の議論をしないと,架空のむなしい議論だけが先行する危険性がある。無料化についても,そうすると塾が潰れる可能性があるし,長続きはしない。また,只だと生徒側にもいい加減な気持ちになって折角の試みが台無しになってしまう恐れから,ある一定のリーズナブルな条件でやっているらしい。塾の講師と学校の先生の交流も進んでいるように云われていた。見る限りではWin-Winが成り立っているように映る。
文部科学省の枠からはみ出した行為なので,しかめっ面をするお役人も居るようだが,良いと判ったときに,他の学校に横展開の意識がないことに,ローソンの新浪社長なんかは,理解ができないと嘆いておられた。普通一般企業であれば,他社が良いことをやっておれば自分も真似をしようとするのは当然のことである。生徒にとっても機会均等になっているし,こんな事例を横展開出来ないこと自体,嘆かわしいことである。といっても,今の学校の校長レベルでは,何一つできないし,やろうともしない。まず,やり方すら学ぼうとする意欲もないのでは,と思う。
学力の二極化
学力に関して,二極化が進みつつあると云う。そこで,生徒に対して授業内容を二極化している下位層を中心にするか,上位層を中心にやるか?との問いかけがあった。視聴者アンケートでは,2/3が下位層を中心と答えている。これはやはり義務教育などを考えると当然のことで,落ちこぼれになる生徒を如何に少なくし,最低レベルのアップを図ることに注がれるべきであろう。
ジャーナリストの人が発言していたが,中東やアラブ諸国にテロリストが多いが,彼らは殆どが落ちこぼれや貧困層で,体制に対して反感を抱いている。つまり,落ちこぼれを増やすことは,結果的にこうした人を増やすことにつながって,国家としても良くない方向に行く。そうした意味でも,日本の国において,落ちこぼれや切り捨てられた人を作るような教育現場は避けるべきだと。
また,これもよく報道されることだが,東大生の家庭の親の年収が950万円以上の家庭が半数以上を占め,親の年収が学力を左右する時代になってきていることに警鐘をならす声がある。格差の拡がりは,東京や大阪でも保護家庭が3割近くに達し,学びたくても学べない子供が増えてきているという。親の収入で学力に差が出ること自体,国としての無策の現れである。貧富の差なく,優秀な子供にはそれなりの学力が付く環境を提供すべきである。
専門家のデータでは,平等を貫いている国の方が学力は向上している傾向にあり,一部をエリート教育しているドイツなどが破綻しているという。これも詳細は判らないが,面白いデータである。
教育にお金をもっと掛けるべきか?
最後の話題は,教育にどれほどお金をかけるべきか。実際,日本は教育に掛けている割合が少ない。国の歳出は教育・科学振興に5.3兆円しか掛けていないと云う。道路財源が国会で議論されているが,もっと教育の回すべきで,参加者の殆どの人が,もっと教育にお金を掛けるべきだという。ごく一部反対意見は,お金を掛ける前に,まず知恵を絞ってはどうか,と云う意見である。教育にお金を,と教師を増やしても,いい加減な先生を増やしても意味がないと云ったものであった。
また,学級の人数が日本は多すぎる。したがって,十分生徒の面倒は見られないし,みんなで議論しようにも(テレビではディベートが話題だったが),多すぎて無理がある。だから,日本人は議論が下手であると。国際社会に出ると,途端に日本人は主張することができなくなると云う。
先生自身の評価をすべきだ,と云う意見があったが,そうした評価には先生はみんなが反対と叫んでいたのは面白かった。生徒を評価している先生が自分の評価になると反対というのはおかしいと突っ込まれていたが,先生の評価そのものをどんな基準でやるかが難しいと云う意見だった。先生自身は,結構生徒からは厳しい評価はされているとも云われていた。生徒の評価と先生同士の評価とはあまり変わらないようである。ただ,教え方が上手,下手で評価するのはどうか,生徒の指導など熱心にやっていると云った先生の評価もすべきだと。
先生方にも,よい意味での競争原理は必要である。また,悪い先生に対して,的確な指導はできているのか?マネジメントはしっかり働いているのか,と云った意見もあった。また,先生の給料は安い,魅力がない,これでは優秀な人が教師になろうとはしないのではないか。もっと待遇改善をすべきではないか,と云った声もあった。
1970年代は先生のレベルは世界のトップクラスにあったという。それが今では下から数えなければならないほど低下している。日本の低迷がこうした点からも見えてくる。
番組を見ていて感じたこと
前々から思っていることであるが,先生の質の向上を図ることが非常に重要だと感じている。番組の中でも,コメンテーターの榊原さんや新浪ローソン社長が言われていた,もっと質を高めるために,企業に学んだり,競争原理を入れたりして,文部科学省の一定の枠を解き放ち,多様性ある職場にすることで,もっと活力がつくのではないかと思う。つまり,同質性の閉鎖社会の中でしか物事を判断していないので,当然偏ったしかも,競争がないので質的な劣化は進む一方であるように思う。
近くに教師の家庭が何軒かあるが,いずれも社会人としては偏屈と云うか,社会人馴れしていない種族のように感じている。もちろん教師すべてがそうだと云うつもりはないが,普段の社会における目線が,生徒達に対するものばかりで過ごす時間が多いせいか,常に上からの目線でしかものが見えない。ところが,社会人として,特に企業に勤める人々は,上からも下からも,仲間からも,といろいろな角度で接する機会に恵まれている。したがって,どの角度からにも対応できるようになっている。
ところが先生は生徒達からの視線が殆どで,それ以外からの視線は,校長や教頭からは多少あるかもしれないが,生徒のそれに比べると随分少ない。つまり,常に教える立場にいるため,社会生活で,違う人,つまり自分で教える立場に無い人には,接し方がよく判っていないのではないか。社会になかなか溶け込めない教員の家庭を見るに付け,そう感じてしまう。
このことは,学校という一種の閉鎖社会に生活する人の生活習慣病ではないかと思っている。和田中のように,新しく企業から校長先生が来られると,社会との目が開けるようになる。そういう機会を得ることで,先生方も社会人としての生活感が発揮されるようになり,より身近な学校の姿になり,活性化もされていくのだと感じている。こうした学校,特に教員の多様性を持たせることが,非常に重要なことだと思っている。教員の質を上げるには一番効果的な方法である。
昔から,「でもしか先生」と云われたことがあった。「先生にでもなるか」といった形で教職に就いた先生や,先生にしかなれなさそうな先生を嘲うときに使った言葉で,1970年代後半にもっとも普及した言葉である。現代では意味を聞いてもピンとこない言葉かも知れないが,当時は教師が不足しており,志願すれば教師になれるといわれるほど,教職に就きやすかった時代背景があったからこそ普及した言葉である。その世代が団塊の世代として大量に退職すると,再びこの言葉が復活するかもしれない,と云われている。
先生の学力は10数年前までは日本が一番高かった,とのコメンテータからの説明が番組であったが,本当にそうだったのか?と疑っている。我々の時代から,本当に先生を憧れの職業として先生になった人がどれだけいたことか?たまたま,教育大学に受かったので,就職先の企業がなかなか見つからなくて,先生でもやっておこうと。本当に優秀な人は,先生と違う道を選んでいる人が多かったのも事実である。それを一般家庭の父兄が知っているものだから,先生を頼りにしない,と云うのも一因にはあるような気がする。
番組に出てこられた先生方は,少なくとも番組に出て言いたいことを言おうと思って出てきているはずである。しかし,一般の人と比較するとどこか,一種独特の特権階級的な感じの人が多いように見えた。つまり,自分たちの正当性を盛んに主張はするものの,素直に広く社会から学ぼうとする姿勢が少ない。閉鎖社会の中でしか物事を見られなくなってしまっているので,自分では正論を述べているつもりでも,一般社会では,ましてグローバルな競争社会では通用しないようなことを堂々と述べられている。本当に先生を何とかしないと,日本はますますダメになって行くのではないかと痛感した。
教育現場の閉鎖社会を壊さないと日本はますますダメになって行く
「学力の低下は先生方の質の低下だ。それは同質化の弊害による」と言いたい
[Reported by H.Nishimura 2008.03.24]
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