■日本の,これから 「学力」 1 (No.058)
NHKで公開生放送番組,「これからの,日本」で「学力」をテーマにした討論が放送されていた。教師,生徒,父兄,職業人,それにコメンテーターなど,50人弱が参加,約3時間に亘る議論が繰り返されていた。世界各国と比較して日本の学力が低下してきており,また,ゆとり教育の見直しがされようとしている。日本の将来に関して熱い議論がなされていた。
日本人の学力低下
NHKの調査で,子供の学力が低下していると考えている人が7割居るという。文部科学省が30年ぶりに主要教科の時間を増やすことになった。これが果たして学力低下の歯止めになるか。調査結果では,賛成が8割を占めた。しかし,その中でも,時間を増やすことよりも,本人のやる気の問題の方が重要だとか,教え方の問題(授業の質)であるとの意見もあった。
「ゆとり教育」に対して,元に戻すと云うことは,果たして失敗だったのか。元に戻すだけで本当に良いのか。生徒達の意見は,あまりころころ変えないで欲しい,と云うものだった。もともと「ゆとり教育」は,単に座学で知識を付けるだけでなく,もっと幅をもった教育を多面的にやろうという試みだったはずである。これが上手く行かなかった原因は,果たしてどこにあったのか。その原因究明ができているのだろうか?
確かに,学習の時間が少ないとそれに比例して学力が低下することはあり得る。つまり,学習時間と学力が比例している状態ではそうなるが,飽和している状態だと必ずしもそうはならない。学力低下が起こったと云うことは,学力が時間に比例している状態で時間を少なくしてしまったことになる。これはそもそもどこが間違っていたのだろうか?時間を減らせば学力低下が予想できなかったのか?「ゆとり」と云う如何にも響きのよい言葉に幻惑されてしまったのではないか?
学力とは,何か
この問題のきっかけになった調査はPISA調査と云って,15才の子供を対象に知識と応用力を問う問題だったそうである。これらの問題は,単に知識ではなく,応用力,それも情報処理力ではなく情報編集力と云ったものを試す問題だったそうである。調査結果から,良い点の国の方が学習時間は少ない,つまり教育の質の高さが問題になっていると学識経験者は述べている。
これまでから,日本は暗記,知識が中心で,応用力,創造力が欠けると云われてきた。もともと受験勉強のために学ぶことが中心に行われているので,それは当然の結果である。欧米の教育現場を経験している人の意見では,日本の受験勉強の制度が弊害になっていると云う。しかし,これはここ数年の問題ではなく,以前からも日本の教育体系は大きくは変わっていない。なのに,低下が顕著になったのはなぜか?調査の方法は以前と変わってはいないか?疑問が残る。
多くの意見は,現在の日本人に必要なのは知識ではなく,応用力だと云う。しかし,コメンテータの榊原さんは真っ向から反対を唱え,知識は先ずは必要であり,もっともっと必要。応用力はその上に出来上がるもので,知識のない人に応用力は生まれない。創造力も単なるひらめきではなく,いろいろな知識の組み合わせであって,知識がなければその組み合わせすらできない。即ち,創造力が生み出せないことになる,と主張していた。正しくその通りだと感じている。知識とは受験問題に答えられるような知識ではなく,もっと幅広く応用力が効くような知識がまだまだ足りないのではないか。
話題にはならなかったが,これはスキル(知識力)とコンピテンシー(発揮能力)との関係にも似ている。つまり,スキルが必要だ,と一般的には云われるが,スキルはある程度学ぶことで知識として得られる部分で能力として付けられる部分がある。しかし,コンピテンシー(発揮能力)がないと持ち腐れのスキルだったり,資格をもっているだけで,実際の役に立たないケースがある。そういう意味で,知識と一言で言っても,受け止め方でどのようにでも採れる可能性がある。もちろん,学力も同じである。発揮できなければ意味がない。
企業人の人は,「21世紀は知識だけでは競争に勝てない,応用力がないと勝てない」と肌身で感じている。しかし,このことが生徒達には通じていない。また,先生方にも理解されていないように見えた。それは,学校という狭い範囲の中での生活感と,グローバルな競争社会での生活感との差にあるのではないかと思う。言葉では,真の意味が伝わり切らない深い意味があるように感じた。
学習意欲
子供の学習意欲について,低下しているとの回答が6割を占めた。その原因は,テレビ,ゲーム,携帯,パソコンなど,最近は子供達を誘惑するものがいろいろある。実際に,携帯中毒に近いと思われる子供の生活実態が映されていた。毎日,200通以上のショートメールをする子供がごく普通に居るらしい。携帯が辞められない子供達である。私には全く理解できない世界である。
話が逸れるが,会社でも日に100通以上のメールが送られてくる人が結構居るようである。私は,その1/5〜1/10程度のメールで済ませている。多くを処理している人たちは,フィルターを掛けて選別しているとは云うものの,それだけメールが来ると云うことは,そのメールを見るだけの時間だけでも随分違うし,メールが溜まると気になるものである。じっくり考える時間が割かれてしまっている。こういうメール情報を何でもかんでも来ないと気が済まないで集めている人も居るが,時間の無駄だと思っている。少ない情報でも,確かな情報だけで十分判断できるのである。むしろ少ない確かな情報をじっくり考える方が,有効なことが多いと思っている。
子供達にもっと強制的に学ばせるべきかどうか,との問いにも賛否両論があった。「強制」と云う言葉自体に反対と云う意見もあったが,子供の年代によっても随分違う。強制に対する反対の言葉として「自主性」があるが,これが出来てくるのは,少なくとも小学生の高学年や中学生以上である。したがって,強制を主張する人は,小学生の低学年の学習は先ずは強制である。その代表例として,九九の掛け算を強制でなく,自主的に覚えた子供など居ない,と云う。一方,強制に反対の人は,学習を無理矢理にやらせるのでは意味がない,自主性が育つように学習できる環境を作ることだと,主張する。どちらも正論である。
また,コメンテーターの高橋教授が述べられていたが,最近の先進諸国は学習意欲はいずれも低く,高いのはアフリカやアジア諸国の発展途上国だという。つまり,ある程度のレベルに到達すると,それ以上意欲を沸かせることが難しくなってくるようである。
昨今の状況を見ると,子供達に楽しみを味わわせるようなものがいろいろ出回っている。勉強よりもついその誘惑に負けるのは無理もない。多くの大人でもそうである。まして,勉強,勉強と云われると余計に反発したくなってしまう子供心も判る。ケータイなど持っていない子供の方が少なく,取り上げることは事実上難しい。しかし,一方では,勉強に集中出来ないものは取り上げるべきだと云う意見も強い。
我々の時代はその誘惑はテレビだった。テレビを見出すと,ついつい面白くて止められない。また,次週続きが見たくなる。だから,子供にはテレビを見る時間に制限を加えたりした。私などテレビが普及し始めた時代だったので,小学生時代は自宅にテレビはなく,近くの家に行って見せて貰ったりするくらいで,ラジオが中心だった。カラーTVが自宅に付けられたのは東京オリンピックで,高校2年生だった。受験勉強最中で,オリンピックだけはと限定して見たように記憶している。今の時代と違って,誘惑が少ない勉強するにはよき時代だったのかも知れない。
誰かが発言されていたように,何のために勉強するのか,その目的意識がないと,ついつい誘惑の方に駆られてしまう。目的がはっきりしていると何とかしたいと云う思いで,その誘惑をはね除けて勉強しようとするものである。子供達に必要なのは,目的意識を明確にさせずに,ただ勉強しろというのではなく,しっかり勉強する意味を理解させることではないか。また,それを理解させることが,そう簡単ではない,特に反抗期を迎えた子供心をなびかせることが容易でないことを重々知りつつも,そう感じる次第である。
先生の影響
先生に対する批判も結構あった。先ずは,生徒や親からの意見として,魅力的な授業をして欲しい,担当する先生によって子供の成績が大きく左右される,変な先生が多すぎる,など全ての先生ではなく,一部の先生方を批判するものが多かった。これらに対して,先生方の言い分は,先生の仕事というものは,実に忙しい,勉強を教えるだけでなく,生活指導もしなければならないなど雑用に追われているとの主張だった。忙しいのは何も先生だけではない,グローバルに戦っているサラリーマンだって,寝る暇もないほど忙しい人は一杯居る。先生の言い分は言い訳でしかないように見える。
生徒達にとっとも,教え方が上手い先生を歓迎,或いは自分のことを判ってくれる先生の評判が高いようである。教え方が上手くても生徒のことを理解しない先生は歓迎されないようである。ティーチングよりもコーチングが歓迎されているようである。
次に,学校の先生と塾の先生の違いに言及が及び,明らかに塾の先生の方が教え方は上手い,プレゼンテーションの差があるとの意見だった。それに異論を唱える人は少ない。先生方がどれだけ教え方の研究をしているのだろうか?一方,先生からの反論は塾は教えて欲しい子供だけが来ているが,生徒の方で嫌だったら塾に行かなければよい。しかし,学校では生徒を選ぶことはできず一律なので,なかなか教え方そのものが難しいとのことだった。難しいのなら,尚更研究する必要があるのではないか。
一方,今の文部科学省の制度そのものが問題で,これを変えない限り難しいとの意見もあった。それは,教師になる免許制の資格廃止やもっと学校に競争原理を導入すべきで,もっと多様化,つまり社会人で優秀な人が教壇に立つなどができるようにしなければ,今の状態から変わらないと云う意見である。さらには,今の学校には,マネジメントに問題があって,マネジメントそのものが出来ていない,例えば,学校外の活用など皆無で閉鎖されてしまっている,と言い切る人もいた。
当に,学校の閉鎖社会,世間を知らない教師と云うのには全く同感である。生徒が先生から受ける影響は大きいものがある。その先生が,社会人として立派な人であれば申し分ないが,そうでなくてもせめて,一般常識人であってもらいたいものである。そうでないから,親から今年の先生は当たりが悪かったなどと云われるのではないだろうか。
(続く)
日本の学力低下は由々しき問題である
閉鎖された教育現場に改革が必要である
[Reported by H.Nishimura 2008.03.17]
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