■偽の問題 (No.051)
2007年を揺るがした問題に「偽」問題がある。
賞味期限問題
京都の清水寺で年末恒例の一年を象徴する一文字が「偽」であった。このことからも,2007年一年,よくもまあこれだけ,と思われるほど食品安全の問題が報道されない日がないほど,と云った感がある。
全体を通して,「金儲けに目が眩んで」と云う印象は拭えない。多分,最初は善意(?)だったのかも知れない。昨今,モノが豊富になり,食べられるものでも捨ててしまうようになってきている。それらの反省で,「もったいない」と云う言葉が一方では取り上げられている。確かに,それぞれの個人の家庭では,賞味期限が過ぎたからと云って,ポイ捨てするとは限らない。十分見定めて,これは未だ大丈夫と判断すると,食べることは普通一般である。
そもそも,賞味期限など昔(1990年代より前)はなかった。調べてみると1995年に制定されている。その制定の背景は,それまでは製造年月日の表示だったが,商品によって賞味期限が違うなどと,一番大きかったのは外圧のようである。製造年月日の表示は,アメリカの輸入品の自由貿易の障害であるとのこともあって,製造年月日の表示から,賞味期限表示に変更されたとのことである。
そうした背景もあって,賞味期限が切れても「もったいない」気持ちと「少しでも儲かる」気持ちが合い重なって,少し伸ばしても問題ないとなり,少しやってみて問題が起こらないとなると,それがいつしか常態化しどんどんエスカレートする。集団ではこうしたことが起こりやすいのである。「正しい意見」が少数の悪い意見となって集団では通用しなくなるのである。
そうした意味では,トップの責任は重い,と云わざるを得ない。なぜなら,食品を販売して,顧客に満足して貰って,それで利益を貰う,と云った基本理念から逸脱しているのである。その食品安全にまつわる倫理観は,トップの責任以外の何ものでもない。社員の勝手な判断でやろうが,誰かの指示であろうが,食品の安全はトップが責任を持っている。知らなかったで済まされる問題ではない。いずれも,「利益」を上げることが最優先になってしまっている結末としか思えない。マスコミで報道されるその態度からも判る。
会社経営とは? トップの問題
会社経営は儲けること,利益を上げることは本来の目的である。顧客に満足を与えることでその見返りとして売り上げが伸び,利益が上がる。こうした仕組みで,会社経営は成り立っている。つまり,会社のトップは,如何にして顧客満足を与え,その結果としての利益を追求することに必死になる。これは当然のことである。しかし,顧客を満足することが利益に繋がることはあるが,そうでなくても利益が上がる方法がある。目的でなく目標が利益を上げることになると,違った手段でも利益が上がれば結果OKとなる。そこに落とし穴がある。
落とし穴ではなく,問題のあった会社のトップを見ていると,本来の目的である顧客を満足させることがどこかへ行ってしまって,金儲けに走ってしまっている姿がそこにある。トップがそうなってしまうと,部下である工場長や部長が倫理的に間違っていると感じても,それが通じる方法がなくなってしまう。ある工場長が奇しくもは吐いた言葉,「社長は,神様のような存在で,とても逆らうことはできませんでした」が物語っている。それは単なる保身ではなく,会社に居る限り社長には絶対服従なのである。
そう考えると,トップ自身の考え方が全てである。問題あった社長がどんな考え方の持ち主か十分知った訳ではないが,報道で知る限り,その人となりが問題の根源にあるように感じられる。つまり,トップの生い立ち,育ち方,会社経営の成り立ち,大きくなっていった経緯,などが大きな影を落としているように感じられる。
それらには,大きく二つのタイプがあるように映る。
一つのタイプは,成上がり者で,一代で栄華を極めたタイプである。それらが,金亡者のように移るのは,その育ちからして苦労人で自分ひとりが頑張って今日までの栄華を極めてきたのであろう。しかし,そこには確固たる会社理念もなく,金儲けがすべて,会社が大きくなれば,利益が上がれば,結果良しであったように伺える。そうなると,独裁的な色彩が濃くなり,部下の意見を全く取り入れなくなってしまう。自分のやり方で成功してきた自信がそうさせるのだろう。もちろん,一世一代で大きく会社を育て上げた人は多くおり,それらの人がそうかといえば,必ずしもそうではない。それには幼少時代の育った環境が少なからず影響しているものと考える。貧しいずる賢い感覚はいつまで経っても変わらない。多かれ少なかれ,人間にはあるものだが,それが顕著に現れた例だろう。もう一つのタイプは,二代目,三代目といった御曹司の経営者タイプである。もともとこうしたタイプは苦労を知らない。幼少の頃から,社長の道が作られた坊ちゃんタイプである。したがって,根っからの経営者ではない。帝王学だけはどこかで学んで,それは身に付けている。だから平時での経営はできる。また,従業員と共に苦労して,会社を作り上げてきた気持ちがないから,従業員はすべて召使のように感じている。口ではそうは言わないが,心の底には,そうした思いがある。それは,問題が起こってのやりとりで,口を揃えたように,「自分は知らなかった。部下が勝手にやっていた」と云う発言である。もちろん,トップ失格の発言である。たとえ知らなかったとしても,部下の責任にすることは許されることではない。しかも,1回や2回ならともかく,常態化している内容を知らない訳はない。マスコミに対する受け答えが慣れていないと云った問題ではない。多分,拙いことだと薄々感じていても,会社経営,利益を優先させる思いの方が強かったため,バレなければ良いのだろうと高をくくっていたのだろうと想像する。
いずれにせよ,責任は経営者にあり,責任をとるべきである。そうでない会社もあるようだが,そんな責任者では,世間で認められるような会社には成り得ないだろう。適切な責任者が見あたらない,と云うこともあろうが,それはそれとして,責任が曖昧なままで続けられるようでは,いずれは顧客が背を向けることになってしまうのではないだろうか。
誰が被害者か
会社人として見ると,一番被害を被ったのは,会社を倒産にまで追い込まれたトップではなく,従業員ではなかったのではないか。自分たちが悪いこと,法に触れるようなことをやっていたのだから仕方がない,と云った見方もできない訳ではないが,サラリーマンである以上,上には逆らえない。逆らったら,結局は自ら会社を止めなければならなくなってしまう。保身ではなく,誰しもが,云いたくても言えない環境下に置かれることになる。その結果が,こうした悪い結末である。そうならないためにも,日頃からの会社風土づくりとして,中間管理職である面々が,如何にして風通しの良い組織にしておくことができるか,にも掛かっているのではないか。それもワンマンなカリスマ的な社長がいればどうしようもないことになるが。
明らかに世間一般からは逸脱した行為がなぜ,会社内と云う組織体では行われるのか。偽装がどこまでも通用すると全員が考えていたのだろうか。昨今では,結局は内部告発のような形で明るみに出ることになる。告発者が保護される法律ができ,内部告発がやりやすくなってはいるが,それによって今回のようないろいろな偽装が明るみになったのだろうか。本当に会社を大切に思っている人がこうした内部告発のようなことをするだろうか。
そうではなく,帰属意識の薄い,自分はリベラルで正義感があると感じているような人が告発しているのではないだろうか。帰属意識が真の意味で高ければ,内部告発の形ではなく,会社内でもっと訴えることをやったのではないか。それが,本当の意味では帰属意識の高い人のとる行動のように感じてならない。そうした努力がなされた結果でも,今回のような事態になったのなら仕方ない。それとも,社長の目がすぐ届くような組織では,帰属意識が十分あってもできない状況下におかれていたのだろうか。
内部告発がなされる環境は,少なくとも少々の正義感だけではなされない。最終的に,火の粉が自分にも降りかかってくることは明らかである。だから,むしろ不満分子のような人の方がやるのではないか。そう考えると,会社組織そのものにも綻びが生じ始めていたともいえるのではないだろうか。会社組織が真の一体感をもって運営されていたら,逆にこうした偽装そのものを生む土壌もなかったような気がする。真の一体感のある組織では,そうした倫理観も高いのではないか。中途半端などちらつかずの組織の方が,赤信号みんなで渡れば怖くない,と云う風潮になりやすいのではないか。
再生紙の偽
まだ,偽問題が尾を引いている。今度は,製紙業界である。これも,詳細は判らないが,「環境問題」を逆手に取った,悪のりで,理由はともかく,業界がグルになってやったとかしか思えない。基準を決めて守ることは,当然の義務である。品質が低下するとか,再生原料の入手難とか,言い訳は結構である。できない時点で,言い出せないのは,2007年の「偽問題」と全く同様である。責任者のモラルが日本企業から無くなったのだろうか? 嘆かわしいかぎりである。
トップの意識が一番問題である
「偽」問題は,会社の風土・文化からくるものである
今年に入ってもまだ続いている。今度は「再生紙」の偽である
[Reported by H.Nishimura 2008.01.28]
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