■会社とは? 1 (No.033)
再就職して,その会社から,現在は派遣社員としてある企業で働いている。その企業でも,多くの人が正規の社員ではなく,私同様外部からの派遣社員で構成されている。以前の会社も同様であった。私が若かった頃からも,人材派遣はあって,技術の中にも,ごく一部だったが,社員と殆ど同じ仕事をしてもらっていた。しかし,あくまでも社員の補助の役割でしかなかった。確かに,重要な仕事の一部を任せている部分はあったが,外部社員なので仕事の内容は少なくともその組織が管理できていた。突然止められても,パワーとしてマイナスにはなるが,大きな支障がでることはなかった。ところが,少し極端な言い方かも知れないが,現在は外部社員が居ないと成り立たない組織になっている。果たして,会社とは誰のためのものか,とも考えさせられる。このことについて,私たちが育てられた過去を振り返りながら,考えてみることにする。
団塊の世代から見た会社生活
入社当時(1970年)
我々が入社した時代は,1969年(昭和44年),日本経済がどんどん上昇しつつある時代だった。。翌1970年には大阪で万国博覧会が開催され,海外からも多くのパビリオンが出展,その華やかさ,コンパニオンに惹かれて,足繁く通ったものだった。当時はまだ,円が固定相場制が布かれていた時代で,1ドル=360円と云う時代である。これは戦後からスタートしている。(円=360度からと云うのは俗説で,金1オンス=35ドルと決められていたため,それを円に直すと360円だったそうである。)
製造と云えば,長いラインに若い女性がずらっと並び,順番に組み立てられ,最後には製品ができあがると云ったラインの作業が殆どであった。如何にしてラインのスピードを上げるか,器用な人をトップに据え,だんだんスピードを上げていくと一日の生産量がアップする仕組みだった。遅い人には予備員や班長がカバーするなど,スピードを競った時代であった。我々も入社当時は,全員が3カ月間製造実習でラインに並ばされた。もちろん,足手纏いになったが,物づくりを体験する貴重な体験であった。また,ショップ店で,販売の実習も約3カ月あった。期間は違うが,こうした新入社員の現場での教育は今なお続けられている。
入社,直後の1971年に円が変動相場制に切り替えられた。当時,高度成長時代の中で育ち,現在では想像もつかないような給料が一気に30%近くも上昇するという時代であった。その反動はすぐ,オイルショックという形で返ってきた。
高度成長時代(1970年〜1980年代)
若かったので経営的にどうかと云ったことは皆目判らなかったが,とにかく,全員が頑張れば頑張るだけ見返りが返ってくると云うことだけは確かだった。現在のように,方向性が正しいとか間違っているかを議論する余地もない時代であった。競合している会社が全て同じ方向を向いて,如何に効率よく仕事をするか,その効率の違いだけが会社の差であった。と云うのは当時の経営者に失礼で,言い過ぎかも知れないが,それに近い形であったには違いない。
暫くすると,日本の製品がどんどん海外で使われ輸出が拡大していく中で,日本からの輸出では対応がスピード,価格などの面で不十分だったりしてきた。そうした背景で,製造業は海外拠点での物づくりを模索し始めていた。それが,1985年,米国のドル高対策としてプラザ合意がおこなわれた。これによって,急速な円高が進行した。プラザ合意前日の東京市場は,1ドル=242円であったが,1988年の年初には1ドル=128円まで進行した。円高を受けて,日本国内の輸出産業や製造業は他国と比べ,競争力が落ちてしまった。この状況を受け,公定歩合を引き下げるなどの政策が打たれた。今日までの変化は次の通りである。
しかし,1980年代では現在のように,海外との行き来がそれほど日常茶飯事ではなかった。日本の旅行客が海外へ出かけることもなく,ビジネスでの出張が殆どだった。その海外へ出張するのも当時は珍しく,職場の人が海外出張する場合,特に初渡航となると,職場のメンバーや家族が伊丹空港へ見送りに行くと云った光景であった。
急激な円高に伴い,関連する部品製造業もしばらくは日本から輸出していたが,最終的には海外拠点で生産するようになっていった。つまり,日本の製造業の多くが,日本での物づくりに限界を感じ,海外生産を拡大するようになった。そこでは,日本の労働者の賃金レートの何分の一,或いは何十分の一,と云った安い労働力が魅力で,次々と海外の会社が作られていった。NIES(Newly Industrializing Economies 新興工業経済地域)などがその代表例である。
国内の空洞化の問題(1990年代)
一方,海外生産が盛んになると,国内の空洞化が問題となる時代になった。つまり,日本と海外とで全く同じものを生産するとなると,賃金レートの安いASEAN諸国での海外品の方が有利になるのは当然である。最初は安いけれど品質が良くないとされていたが,時間の問題で品質も近い状態になっていった。それよりも,安いしかも若い労働力は,自動機での生産に対して,スピードでもコストでも競争できるレベルになってしまった。国内製品との大きな違いは,オーバーヘッドの部分,間接の固定費が比較にならないほど少なかったのである。というのは,賃金レートは安いこともさることながら,いわゆる製品の開発費(技術活動費)がすべて日本が負担しており,海外では物づくりに要する技術だけであり,日本人の駐在費が掛かるとはいえ,日本の間接費とは,雲泥の差があったのである。
こうした安い労働力との競争だけでなく,設計部門を現地化するなど,間接の生産性も競争する時代になっていった。もちろん,当初は間接の質の部分の差は大きく,量(パワー)だけの比較にはならなかったが,質の部分も次第に変化してきた。アナログ時代からデジタル化になり,アナログ時代のノウハウ的な部分が影を潜め,ますますその差はなくなってきた。特に,ソフトウェアなどは標準化も進んでいる関係もあって,日本と海外の差は殆どなくなってきていると見た方が良い。このことは,日本でこれまでやっていた仕事がどんどん賃金の安い海外でやるようになり,日本の仕事が減っていくことになった。つまり,間接部門の仕事も減りだし,国内の空洞化がどんどん進み出したのであった。赤字経営,リストラを味わう(21世紀)
入社以来,会社は利益を出してこそ社会へ貢献していると教えられ,しかもその利益もある一定以上でないと,利益が出ていると胸が張れない環境で30年ほど過ごしてきたが,21世紀になって間もなく,会社が赤字に転落すると云う事態が発生した。これまでの景気がウソのように物が売れなくなり,在庫が増え,安売り競争。気がついた頃にはどうしようもない状態になっていた。これは,多くの企業がこうした苦渋を舐めたのである。
人を大切にして,物を造る前に,人を造ると云われた会社であったが,初めて50歳以上の人は要らないと云われる風が会社内を吹き荒れた。窓際族ならぬ,もっとひどい扱いで,会社は明らかに不必要な人との雰囲気をみんなの前に示した。退職金の上乗せはあったものの,多くの仲間が自主退職する形で止めていった。形は自主退職であるが,明らかにリストラされたのである。多くの先輩,同僚は,入社当時から2000年までは,60歳の定年まで勤め上げるものと思っていた。まさかこの歳になって,自分がリストラに遭うとは想像もしていなかった。しかし,流れに逆らえず多くの先輩,同僚が止めていった。面と向かって悪口を言う人は少なかったものの,断腸の思いだったことと思う。幸いにも残ることになったが,残った仲間・後輩も辛い思いをした。
会社はV字の回復はしたと云うものの,本当に真の力で回復できたかどうかは,これからである。確かに景気が回復し,以前とは違って活気が出てきているのは事実である。しかし,多くの先輩や仲間を一気に無くしたことは,技術の伝承などで大きなマイナスがあったことは否めない。特に,規程やマニュアルと云ったものでの継承は出来ているかに見えるが,若い人と話すと,そうしたものができた背景,その思想がなかなか伝わっていない。だから,彼らがそれを変えようとするとき,過去のことはお構いなくバッサリやるタイプと,判らないことが多く,判断に迷うタイプがいるようである。前者のバッサリ型は,過去の積み上げが活かされずロスが大きいし,一方の慎重型では,なかなか変えることができなくて,これもロスである。私など,そうしたものの考え方や背景,その思想を作り上げてきた一人なので,そうしたことを後輩に説明し,伝承すると感謝されることに何度か遭遇した。
(続く)
あなたにとって,会社とは何ですか?
会社の風土・文化を考えたことがありますか?
[Reported by H.Nishimura 2007.09.18]
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