■口先だけや弁の達人はいるが,率先垂範して実行する人がいない(No.006)
組織内活動について
組織で仕事をしていると,誰かがリーダとなり,その人の指示命令に従って行動すると云うのが一般的なパターンである。通常は,組織責任者がそのリーダ役を務める。組織が作られる背景に,会社として目指す方向や経営理念があって,それを実現させるために各組織があるので,そのミッション(役割)は明確である。ここでは,その責任を担うのが,組織責任者であり,昔は部長,課長,或いは係長と呼ばれ,ヒエラルキー型の組織体であった。
昨今の組織では,ヒエラルキー型が崩れ,フラットな組織としてチーム編成で,そのチーム責任者がリーダと呼ばれているケースもある。これまでの課長や係長を,流行に合わせた呼び名だけを変えたケースも多い。
組織の形態の問題は別にして,意識改革や組織改革と云った全員で進めるものは,組織のミッションのような責任と権限がはっきりせず,なかなか思うように進まない。その一番の要因は,率先してやろうとする人が居ないことである。悪い点を指摘したり,批判したりする人は居ても,それを自らが先頭に立って変革しようとする人が居ないのである。やらねばならないが,誰かがやってくれるだろう,と様子見の人が多い。実行するには経験も必要だし,ねばり強い熱意も必要である。自己犠牲的な精神も必要である。
しかし,改革やイノベーションが必要と叫ばれている割に,そうした行動を正式に評価する仕組みがないのも事実である。苦労してやってみても評価されないとなると,もともと簡単にできることではないので,成果がなかなか見えず,途中でギブアップしてしまうケースも多い。昨今は,計算高い人間も多く,最初に頭で考え,自分の将来にとって損か得かを考えて,その段階でやめてしまう。利口と云えばそうなのかも知れない。
組織は効率よく活動しなければならない。これは当然のことであり,否定することは何もない。しかし,我々の組織で仕事をする中でも,単に効率だけでは測れない重要なものもある。「改革」など効率でやろうとするものではない。だが,時として非常に重要なことである。この本質的な重要性を認識して実行に移す人が出てこないのである。
組織が活性化しているところには,必ずと云っていいほど,率先垂範している人が一人,二人は居る。彼らが上手く全体をリードすることによって,組織が上手く回っている。それとは逆で,問題のある組織は,批判だけはいろいろするが,誰一人先頭を走ってみんなをリードしてやろうと云う人が居ない。むしろ,お互いが足を引っ張り合っている。何か良いことをしようと協力を求める人が居ても,言い出しっぺで責任だけを押しつけられてしまう。こうなると,誰もが言うことさえも止めてしまい,組織は沈滞化してしまう。
評価の問題
敢えて評価の問題としたが,「成果主義」からくる目標管理制度とか,裁量労働とか,人の働きを評価する方法が,従来よりも多様化してきている。それ自体は,必要なことであり,従来は上司の目分量とも云うべき感覚で評価していたものを,計量化したり,上司部下がお互いに納得できる方法に改善されてきている。個人のスキルを上げるために導入されたスキル評価制度なども出てきている。チャレンジ目標などと,如何にも意欲的な内容のように見えるが,実態はとてもチャレンジにはほど遠い内容であることが多い。
即ち,上司部下がお互いに確認した目標に対してどこまでできたかを評価しようとするため,チャレンジ目標と云いながらも,実は評価を意識したできる予測の立っている目標であることが多い。このことは背伸びしたような目標は,なかなか作りづらい環境になってしまう。また,スキル評価制度も,本来それぞれ個人の能力を高めることによって組織力アップを狙うものだが,そのスキル(専門技術など)を正しく評価できる人が居るかどうかの問題もある。つまり,専門スキルを高めてもそのレベルを正しく評価できる人が居ない場合がある。実態は,スキルそのものを正しく評価するのではなく,既に居る職位でスキルの評価枠が予め決められていて,それ以上のスキルは認めないことになっているケースがある。
もちろん,挑戦目標に失敗したり,目標に到達しないと評価は下がることになっている。本当に果敢に新しいことへ挑戦しようとする人に対しての評価ができない仕組みになっていると云わざるを得ない。こうした新しい評価制度は,形だけは如何にも先進的ものにしようとしているが,本来の狙いからは外れてしまっている。率先垂範しろ,と感謝幹部が叫んでも,実態を知っている人たちはそれではやってやろうと,云う気にはならない仕組みになってしまっている。
もう一方で,会社組織の仕組みで違うので全てがそうだとは言い切れないが,一般論で云うと,専門職よりも管理職の方が評価が高い。これはどういうことかと云うと,非常に長けた専門技術を有している人でも,管理職的な仕事ができないと上の職位に上がらないことがある。そうすると,管理的なことが苦手な人にリーダ的な仕事の負担が掛かってくる。専門的な内容のリーダとしての負担ならば当然であるが,いわゆる管理的な,人事,総務的な諸々の負担までが掛かってくる。その負担が重くなり,結果的に専門的なことまでも十分できなくなってしまう。これは,会社としてもマイナスである。
そうした専門に長けた人は,専門でのリーダシップを発揮する場を与えた方が,活き活きと率先垂範してくれるケースがある。マネジャーとリーダとは,そもそも目的も役割も違うと云われている。しかし,日本の会社ではその区別は殆どない。マネジメントもリーダシップもできる人が組織責任者である。組織責任者は当然そうだと思うが,専門職においてはリーダシップを発揮できる人が,その持ち分を十分活かせるキャリアパスは必要である。こうした評価制度を見直すことも,率先垂範して実行する人が増える土壌になるのではないだろうか。
部下が頼りになるリーダとは
自分の周りの会社幹部や上司を見渡してみると,本当にこの人について行こう,と思う人がどれだけいるだろうか? おそらく多くの人がなかなかそういった上司に恵まれていないのが実態ではなかろうか。確かに会社でのポジションは高い職位に就いているが,いかにも要領がよく出世し,あんな人にはなりたくない,と感じる人も結構居るものである。
部下は上司の行動の一挙手一投足を見ている。自分を磨くためには,上司の存在と云うものは大きい。人生を大きく左右する要因にもなる。信頼おけるリーダ像を一言で云うのは難しいが,部下にとって,やはり最も信頼がおけるリーダとは,率先垂範して行動を起こす人である。身近に手本となるような人が居ることは心強い。いろいろ指導をしてくれるリーダでも,口先だけで云っている人と,自ら率先して行動で示す人では,受け止め方が全く違う。
理想のリーダ像については,別途述べることにするが,私が経験した範囲で云うならば,目指す方向だけはきちんと明確に示し,やり方は部下の自由に任せる。ただ,それも放任ではなく,人として懐深く,より広範囲な視野で見られる情報源を持ち,視座を高くして,的確な判断を素早く下せる上司だった。管理中心でなく,個性を伸ばせる環境を与えながら,やって見せて,やらせる。小さな失敗には寛容に,立ち止まって逡巡していると叱咤激励し,前に転んだような失敗は大いに褒める,と云った上司だった。
少なくとも,逆に立場になって私が上司となった部下には,同じように心掛けていた。もちろん,すべて上手くできていたと云う自信はないが努力はしていたつもりだった。率先垂範することは自分のモットーだった。若い人にも負けないチャレンジ精神は定年まで続けた。定年を迎えたときも,部下からはとても定年するとは思えない,と云われるほどエネルギッシュなままでいた。
実行することは難しい
「経営は実行」(ラリー・ポシディ,ラム・チャラン著 2003 日本経済新聞社)や「実行力不全」(ジェフリー・フェファー,ロバート・サットン著 2005 ランダムハウス講談社)など,実行が伴わない経営はあり得ないことを述べた書物は多い。それだけ,実行することは難しいことなのである。このことについては,別途,詳細に検討したい。
以上,最初に技術経営の課題提起したことについて,具体的な内容に触れてみた。機会ある毎に,このよもやま話に掲載したり,又は新しいコーナーで,掘り下げてみたいと考えている。
なかなか実行することは難しい,と思っていませんか
新しいことにチャレンジすることは,技術者魂の一環ですよ
[Reported by H.Nishimura 2007.03.08]
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